1168、窓を見失った「奥深さ」は危険極まりない

窓を見失った「奥深さ」は危険極まりない。窓だけで奥がないキリスト教などあり得ない。であるから、キリスト教は入口の単純さと奥行きの両方を何とかして証言すべきである。またその窓口と奥行きの繋がり(連続性)の神学も必要である。しかし客観的な神学はそれを表現できないがゆえに、「我と汝」的に知ることが第一優先であろう(マルティン・ブーバー)。であるから、神のことを「知っている」と言ってしまうとそれ以上、神との人格関係は進まないことを肝に銘じるべきである。我々がこれからも知り続けるべきであるがゆえに奥深いのである(ポール・トゥルニエからのイメージ)。最近、私は「息」と「形」と「言」という聖書の概念から奥に入ろうとしているのだが、客観的な神学の限界が立ちはだかる。