二・三人の神学(按手礼論文10)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)

第五章、シャロームの源泉は「神の内なるシャローム

 今回の「二三人の神学」は、「神の内なるシャローム」を土俵にして論ずる神学である。つまり、平和の源泉が「個人」「場所」「人と人との間」でなく「神ご自身」であるが、そこに停まらずに、「神の内なる関係性」にあると信ずる神学である。

 しかし、新約聖書に記されている「平和」という概念は「神の内なる平和」を表わす用語としては用いられていない。そうではなく、むしろ神と人との二者関係の用語として用いられている。例えば、ローマ書5章1節においても「神との平和」、つまり神と人との平和的関係という意味で用いられている。またローマ書12章18節においては、「すべての人と平和を保ちなさい」と記されていて、人と人との平和的関係という意味で用いられている。また自己のなかにおける内的関係の用語として使用されているのも確認できる。つまり新改訳聖書において「平安」と訳されている箇所がその箇所であるからである。(今まで「エイレーネ」で「平安」と訳されたものが、新共同訳では「平和」と訳されているのは興味深い。)

 しかし、私は新約聖書に度々登場する「神の平和」という表現を思い描くなかで「神の平和」に依存しているということは、実は「神の内なる平和」に依存しているということではないか、つまり「父と子と聖霊間」(三位一体間)の平和に依存しているのではないかと考えるようになった。我々が今まで「父と子と聖霊間」の平和について言及することがなかったのは、おそらく、その三者関係が完全な平和状態であったからであり、何もわざわざ、三者の関係性に触れる必要がなかったからである。また聖書のなかに「父と子と聖霊間」の人格関係の模様が描写されている聖書箇所が少ないことも一つの原因であろう。特に「父と聖霊間」「子と聖霊間」については殆ど聖書には言及がなかった。

 だからといって、「神の内なる関係性」を無視して想像することには限界があるように思う。神は一者であるということだけで、神をイメージし続けることには困難があるのではないか。例えば次のような受け入れがたい考えも出てくる。

「神はお一人で寂しいので人間を造られた。そのときから初めて、神は二者関係というものを経験なさるようになった。それだけではなく、人間のなかに男と女の二者を造ったことによって、神は一者なのに、人は二者になってしまったので、人間同士の関係をねたましく思い、人間世界に世話を焼くおせっかいの神となられた。」

 決してこのような神ではあられない。人間を造ってしまったばっかりに、神にとっては全く未知の二者関係、三者関係、共同体、なるものが生じてしまった結果、一者しか知らなかった神が驚いてしまわれたのではない。そうではなく、二者の関係、三者の関係、共同体性なるものは、被造物である人間から生じた経験ではなく、根本は神から出た経験なのである。「関係概念としての平和」は人類の経験から神さまが学ばれたものではなく、神ご自身が人類に「関係概念としての平和」を提供されたものである。「関係」は神から来た。「関係」は神以外のところから出てきたのではなく、「神の内なる関係」から出たものなのである。中世期のサン・ビクトールのリチャードも「神の内なる関係」についてこのように語っている。

 「最高善、全く完全な善である神においては、すべての善性が充満し、完全なかたちで存在している。そこで、すべての善性が完全に存在しているところでは、真の最高の愛が欠けていることはありえない。なぜなら、愛以上に優れたものはないからである。しかるに、自己愛が持っている者は、厳密な意味では、愛を持っていると言えない。したがって『愛情が愛になるためには、他者に向かっていなければならない。』それで位格が二つ以上存在しなければ、愛は決して存在することができない。」4)

 我々人間は、サン・ビクトールのリチャードのごとく、関係概念としての「愛」だけでなく、関係概念としての「平和」を神ご自身の内に見いだそうとしない限り、理想的な平和を思い描くことができないのではないか。最近、私は、今までの福音主義は「あなたが個人的平和である『平安』を持っておられたから、私も個人的平和である『平安』を持ってもいいですね。」(敬虔主義的平和理解)というふうに生きてきたのであるが、これからは、「あなたが関係概念としての『平和』を持っておられるから、私も関係概念としての『平和』を持っていいんですね。」(再洗礼主義的平和理解)というふうな理解を持つ必要があるのではないかと思うようになっている。正しくは、両方の平和概念(つまり敬虔主義的平和理解と再洗礼主義的平和理解の両方)を持つ必要があるという理解に至っている。

 それでは次に、神の内なる平和、神の内なるシャロームの本質に触れてみたい。神の内なるシャロームの本質は、二者関係と三者関係が包含されている「二・三人の平和共同体」であった。

4)P・ネメシェギ 父と子と聖霊(南窓社)PP.204-206