二・三人の神学(按手礼論文9)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)

第四章、シャロームの源泉は「神」か?

 平和の泉の源泉が「個人」でもなく、「場所」でもなく、「人と人の間」でないならば、平和の泉の源泉は一体はどこにあるのであろうか。もちろん「神」である。すべての美徳の源泉が神であるので、もちろんのこと、平和の源泉も神である。神は旧約のイザヤを通して「そのように、わたしの口から出るわたしのことばもむなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ55章11節)と、あらゆるものが神から発して神に帰ることが述べられている。また新約のパウロは「すべてのことが、神から発し、神様によって成り、神に至る・・・。」(ローマ書11章36節)と明確に述べられている。

 ただ「平和」の泉の源泉は「神」である、ということだけで良いのであろうか。確かに我々の神は「平和の神」であるが、それだけで良いのであろうか。

 というのは平和は関係概念でもある。つまり一人では平和を表現できない。平和とは二者以上のものの間でなされるものであり、一者だけでは平和を表現できない。ギリシャ的な「内なる平安」、日本的な「心の和らぎ」ならば表現できるが、二者以上のものの間でなされる「平和」は関係概念としての平和である。我々はすべてが一者としての神から出たことを確信するが、「関係概念としての平和」をどのように理解するか、「関係概念としての平和」と言うときに、次の理解に進んでいくことができるように思う。