「メノナイトから見た聖書解釈〜「救済」について〜」トーマス・ヨーダー・ニューフェルド博士(新約学:コンラートグレーベル大学名誉教授)第二講義

第2講義 パウロと救済
 パウロ書簡から救済に関する伝統的な考えが読み解かれてきました。福音派の人々にとっては特にそうでしょう。パウロについてもっと詳しく見ると、(このような言い方が許されるならば)パウロはイエスと同様に「再洗礼派」的であると私には思えます。

 ユダヤ人としてパウロは(イエス使徒・宣教師になる以前も含めて)、神はある点でこの闇の「時代」を終わらせ、「救いの日」にもたらす(第2コリント6:2)と信じていました。十字架にかけられ復活したメシアの使徒としてパウロは、救済は現実となりすぐに成就すると信じていました(ローマ13:11)。救済によって罪は終わるのですが、そればかりでなく人間性を束縛する力がもたらす抑圧も終わるのです。救済は、死そのものさえも終わらせます(第1コリント15:24-26)。パウロの考え方を特徴づけるのは、驚くべき「知らせ」という言葉です。その「知らせ」とは次の内容を持っています。すなわち、解放は神によって選ばれた民(イスラエル)だけにではなく、この知らせに信仰をもって応答する異邦人に対しても与えられるということです(使徒10、11章 ペテロとコルネリオの出来事を見てください)。

 このような救済理解は、ローマ人への手紙に見られます。この手紙はパウロの中で最も偉大であり、パウロを理解するのに最も大切な手紙です。神の救済は罪人の和解をもたらし(ローマ3章、5章)、被造物の和解をももたらします(ローマ8章)。イエスの救済理解と同様に、救済は広く、深く、多様な現実です。それが多様なのは、この世界と人々は傷んでおり、互いに疎外し合い、神からも疎外されているからです。それにもかかわらず、パウロの理解する救済の中心には、イエス・キリストを中に働く神、イエス・キリストを通して働く救済者としての神がいます。救済をもたらすのは私たちの信仰ではなく、(非常に重要な点ですが)神の慈しみと愛なのです(ローマ5章、エペソ2:4)。それは、イエスの忠実あるいはイエスの信実に現われています。

 少し短くコメントしてみましょう。ローマ3:22, 26とガラテヤ2:16; 3:22は、「イエス・キリストへの信仰」としばしば翻訳されています。私は、「イエス・キリストの信実(忠実)」という翻訳に賛成です。この信実はイエスの僕としての働きだけでなく(ピリピ2:6-11)、神への敵対者としてどうしようもない状況にあった「私たちのために」自らをささげたことも意味します(ローマ5:6, 8, 11; エペソ2:14-16; 5:2)。驚くべきことに、イエスの信実とは、現実に見られる神の正義と公正なのです(ローマ3:21-26)。

 神の救済における正義を、パウロは「驚き」という言葉で強調しています。だから、それは常に「福音」すなわち「良い知らせ」なのです。これは、もちろん、イエスの復活にも当てはまります。パウロのように救済を黙示的視点から理解しているユダヤ人は、復活を信じていました。しかしそれは、この時代の終焉に正しい者が復活するという意味でした。ですから、このような世の終わりの復活を期待していた中で、イエスが復活の「初穂」としてよみがえったこと(第1コリント15:20)は衝撃的なことでした。

 もっと衝撃的な驚きは、十字架でした。パウロの時代、十字架はローマ帝国の恐怖政治の象徴でした。この刑罰は「正義である者」に逆らった人々にもたらされたのです。驚くべきことに、神は子に与えられた苦しみと処刑を「救いの力」に変えたのです(第1コリント1:18)。人間の反逆は、救済と和解をもたらす神ご自身の導きの働きへと変革さられました。これは昔も今も「良い知らせ」、福音です。それを贖罪「理論」にしてしまうことには、この驚きを見失う危険があり、「愚かさ」としての十字架を無意味にしてしまう恐れがあります。パウロは、実際に行われる神の愛と憐れみにこの「愚かさ」を見出し、罪人たちのための働く神の驚くべき正義にもこの「愚かさ」を見たのです。

 今日、十字架を敬遠するキリスト者がいます。あるメノナイトの人々もそうです。なぜならば、十字架を「贖いの暴力」と捉え、メノナイトの平和理解への裏切りと理解しているからです。私は、暴力の推進を快く思いませんし、神を暴力者とする見方にも賛同しません。また、神の怒りから私たちを救うために「血」を神が必要としているという理解にも同意していません。しかし、十字架を敬遠する姿勢は悪い側面を強調しているように私には映ります。敵を愛しているのは神です。罪人を愛しているのは神です。憐れみをもたらすのは神の正義です。十字架を和解の手段と変えるのは、人間に対する神の応答です。イエス(その生涯、働き、死)は、神に対して私たちが持っている疑問の解決ではありません。イエスは、私たちに対する神の解決なのです。

 この驚きを表現するのに、一つのイメージや一つの比喩では十分ではありません。パウロ書簡において、多くの用語や比喩的表現が救済を表すのに用いられています。身代金(買い取り 第1コリント7:23; 第1テモテ2:6)、なだめの供え(ローマ3:25)、義認(赦しや無罪の宣言という意味だけでなく、罪を犯した者が「良いことをする」ように変えられることも含む ローマ10:10; 第コリント6:11)犠牲(他者のための自己犠牲 ローマ5:6-11; エペソ5:2)、力の敗北(解放 第1コリント15:23-25; エペソ2:1-7)、滅ぼし(キリストは自分の死を通して「敵意を滅ぼした」 エペソ2:16)、平和の説教(エペソ2:17 福音書に記されたイエス神の国宣言を思い出してみましょう)。他にも様々な表現があるでしょう。

 ある表現は戦いを表し、暴力的でさえあり、解放のイメージを持ちます。しかし、次のことは確かなことです。すなわち、私たちは暴力を振るう神から救われたのではありません。私たちは愛する神によって救われたのです。「怒り」がどのような意味を持つにせよ、(神の裁きを意味することわけですが)、パウロにとって救済はそのような怒りから救われることを含んでいました(ローマ5:9; 第1テサロニケ2:16)。救済は怒りよりも、愛や憐れみに関わることです。神の愛は、弱く憎むべき罪人である者に向けられているのです(ローマ5:6, 8, 10)。救済は、罪人を愛する神の愛の心から生まれます。私たちは神の正義から救われるのではなく、神の正義によって救われます(ローマ3;21-26)。それは、世界の創造者の愛、憐れみ、恵み、正義なのです。

 だから、他の表現として回復、創造、活気、力づけなどが救済を表現する言葉として用いられているのです。これは、私たちが何から救われているのか(束縛、抑圧、罪、死)、という視点から、何のために救われるのか、という視点への移動をもたらします。繰り返しますが、パウロは多くの違ったイメージや比喩的表現を用いています。「キリストに集められる」(エペソ2:15)、「新しい創造」(ガラテヤ6:15; 第2コリント5:17)、「新しい人間性」(エペソ2:15)、メシアの体に加わること(第1コリント12章)、良い業を行うこと(エペソ2:5-10; ガラテヤ5章; ローマ8章)、神の意思を行うために神の霊によって力づけられること(ローマ8:1-4; 第1コリント12章; ガラテヤ5章; 第2コリント3章; 比較 エゼキエル書37章)、神の神殿となること、神とともに家にいること(エペソ2:19-22)。

 このような救済における回復の視点を最も表現しているのは、イースター(イエスの復活)の他にはありません。十字架で殺された方の復活の意味は、パウロにとっては、神はこの世界を救うために既に働いておられるということでした! (完全な)救いの日は近づいているのです!(ローマ13:11; 第2コリント6:2)。パウロ書簡の言葉はときとして熱狂的で、未来のことを現在として書いています。罪人として死んだ者(エペソ2:1-3)の復活のいのちはキリストに隠されているというのに(コロサイ3:1-4)、彼らはすでに新しいいのちへとよみがえらされたと言っています(エペソ2:4-7; コロサイ2:13)。

 パウロの見方に従えば、イエスがよみがえったのでなければ、救済に関するすべての言葉(現在においても、未来においても)はすべて無駄なのです。「私たちは最もみじめな者」(第1コリント15:19)なのです。パウロはイエスの復活を決定的な革命の最初の出来事として見ていました。その革命は、被造物の回復において最高潮に達するのです。被造物はそれを待ちきれないでいます(ローマ8章)。


救済の共同体である教会
 パウロにとって、復活の証拠は空の墓ではなく、教会そのものでした。パウロキリスト者の共同体を奇跡と捉えていました。かつては敵同士であったユダヤ人と異邦人が同じ体に集まり、救いの神の同じ霊によって息づいているのです(聖霊 第1コリント12章; エペソ2:11-22)。ユダヤ人と異邦人、男性と女性、富者と貧困者、奴隷と自由人はともに食事をし、ともに祈り、互いに兄弟姉妹と呼び合い、イエスを主としてともに告白するようになったのです(第1コリント12:3; ガラテヤ3:28; コロサイ3:11)。ここに共同体が存在するのです。それは主と同様に力なく弱いものですが、共同体自身の存在やその信実によって、神による救済の恵みの宗教的、経済的、政治的「力」を文化を通して伝えるのです(第1コリント1章; エペソ2:7; 3:10)。

 それだけではありません。パウロはこの共同体を復活したメシアの一部、つまりメシアの「体」と考えていました(例: ローマ12:5; 第1コリント12:12-14, 27)。この共同体はキリストの完全な現われを待ちつつも(第1コリント15:23)、古く過ぎ去るこの世界(第1コリント7:31)において「いのちの更新」(ローマ6:4)に生きるように召されています。言い換えれば、救済者の体に加わることは、救いを受けることだけを意味するのではありません。すでに起きているように、救済の過程に導かれることが重要なのです。ですから、パウロキリスト者に対して神の武具を着るように勧めているのです。イザヤ書59章では、救いの兜を含めた神の武具を神自身が着ています。それは、抑圧の犠牲者を解放するためです(第1テサロニケ5:8; エペソ6:10-20)。パウロの言葉を思い返してみましょう。パウロは、救済についての福音を広める神の「協力者」として自らを記しています(第2コリント2:18-6:2)。コロサイ1:24では「キリストの苦しみの欠けたことを満たしている」と驚くべきことも言っています。これは、救済を「獲得する」ことを言っているのではありません。それは、救済の証拠です。それは、救済に参与することです。私たちは神の憐みによって救われましたが、それは「良い業」のためです(エペソ2:10)。それは私たち自身の業によるのではありません。それは、私たちの業のためなのです。救済者の働きに参与すること以上に良い「業」はないのです。もし救済が神の正義の働きであるならば、パウロが神の正義について私たちに語っても驚きに値しません(第2コリント5:21)。パウロはまさに「再洗礼派」であると私が言った理由がお分かりでしょうか?

 しかし、私たちも宗教改革の子です。その観点からすると、私たちは業ではなく恵みによって救われたはずではないでしょうか? まさにその通りです。しかし、神の恵みは偉大であり、悪行を赦すにとどまりません。神の恵みは「良い業」を可能にするのです。恵みは「それで良い」とは言いません。義認とは、無実の宣告を意味するだけでなく、正義を行うように私たちを変革することをも意味します(ローマ8:1-4)。恵みは救いの愛の業です。人間性を回復し、創造者が望んでいる生き方を回復するのです。イエスも兄弟ヤコブも、パウロに賛成してうなずくことでしょう。

 変革から恵みが分けられ、苦難の愛への応答から憐れみが分けられ、何とか実現しようと努力している「良い業」(エペソ2:10; 第2テサロニケ2:13; テトス3:8)から赦しと義認が分けられ、社会変革から救済が分けられる、このような救済の福音理解にパウロは驚くだろうと私は思います。また、人々に伝えられるべき救済が、苦しみにある人々、崩壊した社会、破壊された環境という現実の世界とは無関係のように語られるがゆえに、多くの人々が救済の良い知らせを拒んでいる状況にパウロは衝撃を受け、悲しむことでしょう。

 パウロは、伝道はしなくて良いと言っているのではありません。伝道は「救済」への参与そのものです(第1コリント9:16-23; 第2コリント6章)。パウロが望んでいることは、私たちが自身の置かれた時間や場所の中で、神の救いを伝える言葉を私たちが見つけて使うことです。しかし、イエスが「平和の使者」(エペソ2:17)であったのと同様に、私たちの伝道も平和をもたらす良い知らせである必要があります。その平和とは、キリストを通し、また「キリストにある」私たちを通して、神がもたらそうと願っている平和のことです。私たちの語る福音は、イエスの言葉と行動に宣言されている豊かさと深さとを持たなければなりません。私たちの言葉や行動は、パウロとその同労者たちの言動の豊かさと創造性とを備えなければなりません。日本でそれがどのようなことを意味するのか、それはみなさまに委ねたいと思います。


弟子化と救済
 メノナイト、再洗礼派の伝統において、「弟子であること(弟子化)」が重要視されてきました。弟子化とは、キリストに「倣う」ことであり、「イエスに従う」ことです。パウロはこの言葉をあまり用いませんでしたが、代わって、「キリストの内に」いること、「私たちの内に」キリストを持つこと、などの表現を用いています。ここで意味されていること、イエスに従うことは救済に参与するということなのです。マルコ8章でイエスが命じておられるように、喜んで「自分の十字架を担う」ことなのです。パウロは、これをキリストともに死ぬと表現しました。パウロの見方がどのような意味を持つにせよ、私たちにとって、イースターの復活は私たち自身の受難(Good Friday)よりも先立っているのです(第1コリント15:1; 第1テサロニケ4:13-18)。そこに苦しみがあろうとも、私たちは「キリストの内にあって」生きることを選びました。なぜならば、イエスの復活は私たちの復活の道を開いてくれる、と私たちは知っているからです。

 パウロは私たちに「救いの兜」をかぶって欲しいと言っています(第1テサロニケ5:8; エペソ6:17)。それは、私たち自身のためではなく、また「血肉」に対抗するためでもありません(エペソ6:12)。それは、解放のための「武器」であり、抑圧、暴力、神からの疎外と戦うために「着る」のです。

 おかしく思われるかも知れませんが、そのような「兜」によって、神の救済に参与している人々は無力になります。イエスのように防備を失うことになります。実際、イエスはその信実のゆえに十字架への道を歩みました。パウロの理解では、福音の中核は救済の力です。それは、福音が十字架にかけられた救済者を宣言するからです。それは、キリスト者の共同体を作り上げるからです。キリスト者は、十字架にかけられ復活した主に倣って生き、この傷んだ世界にあって苦難の愛をもって謙虚に忍耐深く生きるのです。キリスト者は、イエスが示した正義に生きます。和解をもたらし、回復し、人間のいのち(生活)を強調し、尊大な態度や権力に飢えた世界に対しては抵抗するのです。

 結論として、変革から恵みが分けられ、苦難の愛への応答から憐れみが分けられ、何とか実現しようと努力している「良い業」(エペソ2:10; 第2テサロニケ2:13; テトス3:8)から赦しと義認が分けられ、社会変革から救済が分けられる、このような救済の福音理解にイエスと同様パウロも衝撃を受けると私は思います。また、人々に伝えられるべき救済が、苦しみにある人々、崩壊した社会、破壊された環境という現実の世界とは無関係のように語られるがゆえに、多くの人々が救済の良い知らせを拒んでいる状況にパウロは悲しむことでしょう。