「メノナイトから見た聖書解釈〜「救済」について〜」トーマス・ヨーダー・ニューフェルド博士(新約学:コンラートグレーベル大学名誉教授)まとめ

メノナイトの視点から見た救済  まとめ

1.私の2回の講義は、メノナイト・再洗礼派の聖書の読み方が反映されています。
 ・イエスが中心です。
 ・「言葉を聴く」だけでなく、「言葉を行い」ます。
 ・みなさまには次のことを試金石として下さい。私が述べてきたことは、聖書は共同体において解釈されるという深い確信を反映していることです(これは、ときに「パウロの鉄則」と呼ばれます 第1コリント14章)。

2.私の行なってきた講義は、キリストにおいてあるいはキリストを通して示された救済の考え方を反映しています。ですが、メノナイト派にときどきみられるような、山上の説教の「倫理的」教えだけに絞った理解ではありません。倫理的教えにだけになると、「行為による義認」や「人間の努力」が重視され、恵みが台無しになり、私たち自身の問題を正直に見ることができなくなります。

3.私は聖書全体を見るようにしてきました。聖書全体からイエスを見ます。神とその民との関わりの長い歴史からイエスを見ます。また、パウロが私たちにもたらしたキリスト理解の貢献も考慮します。それは、キリストの体においてまたキリストの体とともに、キリストが臨在していることです。それは、私たちに救いを与え、私たちたちを救いの参与へと導きます。パウロは「本当の」メノナイトの考えとは違う、という見方がります。16世紀においてはそのような考えはありませんでしたが、現代の「再洗礼派」に見られる意見です。私はそうではないと強く考えています。パウロは違った用語を使用しているとは言え、イエスと同様、他者との関わりで生きている現実の人々に届く救済、現実の人々を変革する救済をパウロも考えていたのです。

4.みなさまもお気づきだと思いますが、この講義では救済を全人的なものとして理解しています。
 a. 救いの主導権を持つのは愛である神です。
 b. 被造物と罪人を愛しているのは、正義である神であり、正義を要求するその神です。
 c. 正義と公正によって救うのは神です。その正義と公正による救いは裁きだけでなく、愛する子のいのちを犠牲にした神の憐れみ、恵み、愛によります。
 d. イエスはその死によってだけでなく、その生涯を通じても救済者なのです。模範を示し、教えを与え、より高い義へと私たちを招いています。
 e. 私たちはこの救済を受けただけでなく、この世界への証しと働きかけにを通じて救済に参与するのです。
 f. 救済が(個々人のレベル、社会のレベル双方において)人間の罪と壊れた人間性とに対する様々な次元での神の応答であるならば、その救済への参与の仕方は多様になります。それはちょうど、キリストの体のメンバーが多様なのと同じです(エペソ3:10)。私たちに求められていることは、救済に関する聖書の見方が豊かであることを認めることです。それは深いものであり、人々をそれぞれ違った場所や状況において自由に働かせます。その内容は、伝道であるかも知れません、正義の回復かも知れません、平和づくりかも知れません、環境への関わりかもしれません。