二・三人の神学(按手礼論文6)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)

第三部 シャローム(平和)の源泉

 私たちは生命の水の源泉が主ご自身であることを知っている(エレミヤ2章13節、17章13節、詩篇36篇9節、ヨハネ4章14節)。しかし「シャローム(平和)の源泉」もそうなのであろうか。この章では「シャローム(平和)の源泉」を確認していきたいと思う。

第一章、シャローム(平和)の源泉は個人か?

 「個人」が平和の源泉であると考えることは正しいのだろうか。聖書は、個人を平和の源泉とは考えない。確かにイエスさまは「平和を作り出すものは幸いである」(マタイ5章9節)と言われたが、個人は究極の源泉ではない。シャロームのみならず、すべての祝福は個人から始まるのではなく、神さまから始まるのである。ですから、究極の源泉は「渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者はそれをただで受けなさい。」(黙示録22章17節)と言われている、イエスキリストがくださる源泉でなければならない。それはエデンから流れる水(創世記2章10節)であり、御座から流れるいのち水(黙示録7章17節)である。

 であるから、個人が平和の源泉として永遠的に水を溢れさせ続けることは不可能である。我々が積極思考推進者・ニューエイジムーブメント推進者のように自分の内なる源泉(潜在能力)を信じたとしても、現実は、それは壊れた水ため(エレミヤ2章13節)であるがゆえに水が漏れ、腐り、最後は枯渇してしまうことを聖書は我々に教え続けてきてくれた。個人から出る平和は調整力、人間関係力、統率力などの技術によって、ある程度カバーできたとしても、それは聖書の語る平和には程遠いものである。いや自分の力で、ある程度、平和の枠組みを強化できたとしても、内側が真空状態となるなかで、反対に悪魔の定住の可能性を高めてしまうであろう。我々日本が世界に誇る平和憲法が空洞化してきているのもこのことの証明であろう。