二・三人の神学(按手礼論文3)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)

第二部 聖書的な平和とは

第一章 聖書時代の「ローマの平和」?

 まず聖書時代の世俗世界における平和の定義を三つあげて、この三つを一つずつ消去法で消去しつつ、「聖書的平和」を絞り込んでいきたい。ここで参考にしている書物は、メノナイト派のドライヴァーの「教会、イエスの共同体」(すぐ書房)の中の「平和の共同体」1)の部分である。

 第一番目に消去していきたい平和の定義は「ローマの平和」である。これは大ローマ帝国が実現を目指した、いわゆる「パックスロマーナ」(Pax Romana)と言われている平和のことである。この平和は、圧倒的な軍事力が帝国のすみずみまで支配していたため、武力による抵抗は起こり得なかった、そんな意味での平和である。今で言えば、強力な政治支配による政情安定全体を意味している平和だと言えよう。「ローマの平和」は使徒の働き24章2節のテルトロの陳述のなかでよく表現されている。「ペリクス閣下。閣下のおかげで、私たちはすばらしい平和を与えられ、また、閣下の配慮で、この国の改革を進行しておりますが・・・・」

 我々現代人が「平和」を語るときに、「ローマの平和」的な平和を意味することが多い。しかし、我々が憂えねばならないのは、その「ローマの平和」の名のもとで、「平和の主であるキリスト」が殺されたという事実である。それがユダヤの指導者たちの策略であったとしても、「ローマの平和」の名のもとで、総督ピラトは「キリストの平和」の抹殺を許可したのである。

 つまり、イエス・キリストは、「ローマの平和」の秩序を乱す危険分子として裁かれたのである。そのようなわけで、結果的に「ローマの平和」は人類の救い主イエスキリストを抹殺してしまった。我々が何気なく、「平和」と言う言葉を使用するとき、ある「平和」が抹殺の加害者になり、ある「平和」が抹殺の被害者になり得ることを知っておく必要があろう。もしかすると、我々も「平和理解」を曖昧にすることによって、気づくと盲目状態になっている可能性もあるのではないかと思うのである。確かに、歴史のキリスト教会はそのような「ローマの平和」の危険性にさほど敏感ではなかった。ヴォルフは和解に関する文章のなかで最近のルワンダでの大量虐殺について次のように述べている。

 「ルワンダから来た一人のローマ・カトリック司教の観察によれば、『手に剣を持って最初に出て行った者達は、毎日曜に教会を一杯にした最高の教理問答教師達であった。』1994年の宿命的な数ヶ月において、ルワンダの教会を典型的に代表したのはそんな光景だった。保守的な概算によれば、そのわずか百日足らずの間に、80万人が殺された。」2)

 彼らも「汝の敵を愛せよ」(マタイ5章44節)と命令されたイエスさまの弟子であったはずなのに、なぜ「汝の敵を愛せよ」の命令に従わなかったのか。彼らが名目的クリスチャンであったからか。彼らが自分たちとは異なるタイプの信仰者であったからか。やはり歴史のキリスト教は、「ローマの平和」に対して無批判であり過ぎた。このような残虐的な行為に出る事実は、教会歴史のなかで度々確認できるし、それがゆえに、500年前の再洗礼派メノナイトのグループは、そのような体制から分離することで「神の国の民」であることを確認しようとした人たちであった(第一ペテロ2章9節)。しかし、彼ら再洗礼派メノナイトであっても、ウクライナのコロニーのなかで、自分たちのコロニーの防衛の必要に迫られたとき、自分たちは剣には触れなかったが、防衛のためにロシア人を雇っていたのである。平和主義メノナイトにも、「ローマの平和」的な発想は忍び寄ってきていた。

 「ローマの平和」とキリスト教の結びつきを私は次のように理解している。「ローマの平和」に結びついたキリスト教というのは、丁度、純粋な信仰者である自分の妻を守ろうとする夫の立場のようである。純粋な信仰者である自分の妻の平和的な生き方を見兼ねて、夫なりに自力で自分の妻を守り抜こうとする姿と同じではないかと思う。妻を守ろうとするのは当然のことであろう。しかし、そこで何が問題となるか言うと、自分の妻を守るとき、どうしても「恐れの原理」が働いてしまう。「恐れの原理」が働いてしまうと、どうしても暴力を伴うのである。例えば「恐れの原理」で、高い塀を作って防衛しようとすれば、その高い塀を破壊しようとする暴力がはびこるのである。またその破壊者に対しても暴力で対抗することになる。つまり、高い塀(防衛)を作らざるを得ない「ローマの平和」に結びついたキリスト教は、自己矛盾で苦しむことになるのである。世俗国家というものは「ローマの平和」で生きざるを得ない。しかしキリスト教は「ローマの平和」と「キリストの平和」とを、混同してはならないのである。


1)ジョン・ドライヴァー 教会 イエスの共同体(すぐ書房、1982年)PP89-105
2)ミロスラヴ・ヴォルフ 日本版インタープリテーション2000年11月 和解の社会的意味 伊藤寿泰訳(ATD・NTD聖書註解刊行会、2000年)P29。