二・三人の神学(按手礼論文7)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)

第2章 シャローム(平和)の源泉は「場所」か?

 それでは、平和の泉の源泉は「場所」(トポス)なのであろうか。平和的な場所・空間があって、そこに帰属することが平和ということなのであろうか。確かに平和的な場所でそれなりの平和を味わうことが可能であるし、それは決して意味なきことではない。しかし私たちは「場所」そのものを平和の泉の源泉としない。

 あえて言うならば、神ご自身は「場違いなところにおられる神」1)であられた。イエスさまご自身も「場違い」の場所で生まれられ、「場違い」の行動をなさったのである。そして教会も「場違い」の形でこの地上に存在しているとも言える。そのようななかで、日本のような異教国(場違いの国)で辛うじて救われた我々はいつも場違いであることから、閉塞感を味わい、肩身の狭い生き方をせねばならないのか。決してそうではない。

 我々日本人は「場所」に規定されたものであるという運命論・宿命論に縛られやすい。しかし一方で、我々クリスチャンは決して「場所」に規定されない。それがパウロやペテロの言う自由人(1ペテロ2章16節)であることの意味である。日本が平和な国だから私たちは平和であるとか、キリスト教の国はキリストの場所だから平和であるとか言う考え方も国教会的発想(再洗礼派的発想ではなく)であり、同じように「場所」に縛られた運命論である。「場所」とは我々を運命論的に縛るものではなく、反対に我々の運命論が砕かれ、平和を拡大するための夢に輝くフィールドである。キリスト教はどの国においても外来宗教(場違いなところにある宗教)であった。過去のギリシャ人、ゲルマン人にとっても同様であった。しかし、キリスト教の福音は、場違いの中で縛られることなく、愛と平和を拡大していったのである。日本はこれから「場違いの福音」を受容していく国として残されている。

 竹内靖雄氏の「日本人の行動文法」2)の結論部分で日本人の「場所」理解と思えるような具体的な内容が説明されている。ここでの「場所」理解も、物理的な「場所」の意味だけでなく、意味の「場所」を含んでいる。彼は次のように述べる。

 「日本人は次のような集団および市場、国家に支えられている。家族、学校、会社(同業者の団体)および官庁、宗教団体または同好の人々が作る集団、友人関係、国家あるいは『お上』・・・・以上のような集団、市場、国家は、いずれも無条件に頼りになるというものではない。しかしこれらは個人を取り囲んで存在するもので、個人にとっては「自分がおかれている状況」にほかならない。個人はこれらの集団や国家をあてにし、自分の状況というネットワークに支えられて生きている。それはいわば『ハンモックの上にいる状態』に似ている。大地のように支えてくれるものはどこにも存在しないが『ハンモック』状のネットワークでも、普通は十分に個人を支えるに足りるものである。」

 日本人はいろいろな「場所」を上手に使い分けつつ今日まで生きてきた。日本において大人として認めて頂く入口は「場所をわきまえる」ということであった。大人になるということは社会性を身につけることであり、日本で社会性を身につけるということは、和集団という場所で自己を適用できる人間になるということである。(日本において幼稚園の位置づけは「親代わり」ではなく、社会性を身につけるという傾向がある。しかしアメリカにおいては「社会性」を身につけるということよりも、親代わりの意味合いが強い。それ程、日本においては、社会性を身につけることに神経を払ってきた。)また、日本人が伝統的な「俳句」や「短歌」を好むなかで、「場所」の情景を詩的に説明することで、共通の心情を表現し得るとの信仰があったように思う。それほど、日本人にとって場所への信仰は強いものであった。

 しかし、我々クリスチャンにとって、「場所」との関係者になる前に、まず神と直接的な関係者となることがすべてのすべてである。ただ他方も軽んじない。現に我々は世の人たちのために平和の場所を作っていこうとしているからである。その場所が世の人たちの平安となり、その平安の場所から本当の神との関係に導かれていく道を十分提供してきたし、これからも提供して宣教していかねばならない。教会は世の人たちにとっても幸せ感ずる場所であらねばならないし、駆け込み寺のような安全地帯でなければならない。

 ここで述べたかったことは、重要なのは「『場所』というのは平和の源泉ではなく、我々が他の人たちに平和を提供するフィールドである」ということである。日本人は一般にそのような考えではないので、親たちは、不安や恐れのゆえに、子供たちを良い場所の枠組みに入れたがるようである。確かに良い場所と思える場所からそれなりに良い影響を受けるであろう。「育ち」と言うことはそうゆうことであろう。しかし、その子はそこを生の源泉とする信仰に陥る結果、枠組みの束縛のなかで自分の生が枯渇していくのを感じていくはずである。教会という「場所」であっても・・・・・である。

1)フィリップ・ヤンシー 「百万人の福音」に連載 場違いのところにおられる神(いのちのことば社
2)竹内靖雄 「日本人の行動文法」(東洋経済新報社、1995)PP.362-363