日々のみことば(レビ16章1〜22節 )

 「そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ」(22節)

 現代、聖書とは全然違った意味の「スケープゴート」(贖罪の山羊)という言葉は、ここから出て来た言葉、なんですね。今日は、ユダヤの儀式での、このやぎの頭に両手を置かれる風景、不毛の地に放たれる風景をじっと想像していました。現代的な意味での、人間を対象とする「スケープゴート」は忌むべきものであり、決して許すべきことではないことを覚えつつ、今から2000年前のキリストだけが自発的に犠牲を身に受けたお方なんだと、思い起こしていました。

 イエスキリストは「世の罪を取り除く神の小羊」(十字架)となられましたが、イエス様はこう自己証言されています。「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしにはそれを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10章18節)

 つまりイエス様の十字架の犠牲が、社会科学的分析、心理学的分析によって、彼は犠牲者だ、被害者だと言う人たちがいたとしても、イエス様ご自身は100%自発だと自己証言されていることに注目する必要があります。彼は、自分で、誰からも強いられたのではないと証言されているのです。動機も100%無条件の愛、また100%全人類に向けられたものでした。これは比類なきものです。人のなかに同じものを見いだすことは不可能です。人類は、キリストのこのような100%自発の無条件の愛を知らないから、人類の中に間違った意味での、悲しむべき「スケープゴート」を作り続けてきたのではないでしょうか。