未完感覚と完了感覚の狭間で

 未完感覚を一生持ち続けて生きている人たちがいる。若い時に出来なかったものを追い求めるが、一生懸命追い求めても、その未完感覚は消し去ることができない。人生、損をしたと思っていて、取り戻そうとしてもその未完感覚を消し去ることはなかなかできない。特に人と比較すると、その気持ちはますます増し加わり、未完感覚の海にいつまでも漂うことになる。しかし、未完感覚にキリスト教信仰が伴うと状況は違っていく。未完感覚にキリスト教信仰が伴うと、反対に永遠の希望が伴っていく。必ずしも完了感覚に永遠の希望は伴わないが、未完感覚にこそ永遠の希望が伴うのである。

 反対に完了感覚で生きている人たちがいる。その場合、キリスト教信仰によって頂いた完了感覚は輝いていく。しかし自分で設定した、自分本位の完了感覚は単なる自己満足となり、どうしても偽善性が伴っていくだろう。キリスト教はこう言う。私たちは自分たちの力で、義人であることの完成は不可能であるが、イエスキリストを信じれば、神さまによって義とみなされる。そして神さまによって義と認められる、のである。私たちは未完的な人間であっても、神さまがちゃんと完了してくださる。心配せずとも良いとのイエスキリストの御言葉が心に満ちあふれる。