有田優先生語録12 日本MB宣教初期の状況を知る文章(1990年に有田先生の語られたものを武田が1990.8.4に文章にしたもの)

 主が大阪の地に宣教師の方たちを遣わされて、み業を始められてより今年で40年になります。日本メノナイト・ブレザレン教団が今日のごとくなりましたのも、ただ主の恵みによるものと心から感謝し、聖名を賛美申し上げます。当時の日本は敗戦の衣・食・住のまだまだ乏しい時代でしたので、宣教師の方々のご苦労もひとしおだったと思います。さて、私が大学一年の時でしたが、最初の宣教師として来日されたミス・ウインズ先生との出会いから聖書の学びが始まり、この世に失望していた罪深い私も、イエスキリストの救いに預かることができました。ゲーディー先生、ローランド・ウインズ先生ご一家、そして、ミス・ガンサー先生と続いて来日されたのが1951年でした。その年の7月に日本MB教会、第一回の洗礼式に入れていただきましたが、川の中で信仰告白と証しをして洗礼を受け、長く水の中に浸かっていた思い出があります。石橋荘園の宣教師で伝道開始の備えをしておられた多くの宣教師先生も春日出、鶴ケ丘、尼崎、長瀬の地に伝道活動を開始される時には、初期に受洗した私たちは、宣教師先生について行って、天幕伝道、トラクト配布、家庭集会などで通訳と我武者羅に動き回っていた自分を思い返しますが、その間宣教師先生の実践教育を受けたことが後になって牧会生活の益となりました事に感謝しています。1958年(昭和33年)に「日本メノナイト・ブレザレン教団協議会」が成立しました。その時の9月にクラウス先生の宣教師館で持たれていた鶴ケ丘教会が平野教会へと新しく献堂されて、また栄和教会も天神の地に新会堂が与えられて石橋教会と名称も変わりました。5月に春日出教会が献堂され、その頃、聖書学院一期生だった武田二郎師が、港へ新しく伝道に出られたバーテル先生の後任を勤めておられました。6月には尼崎教会が献堂式を迎えてローランド・ウインズ先生のよろこびの笑顔は今も思い出します。MB本部よりの尊い愛のサポートを私たちは決して忘れてはならないと思います。この年の9月の大型台風が伊勢湾周辺に大きな被害を残していき、私たちの教団、神学生も桑名の地に救援活動に出ました。それがきっかけとなり、その後、ミス・ガンサー先生がバイブル・クラスを始められ、後の桑名教会へと導かれて行ったわけです(1963年 倉先生赴任)。1960年(昭和35年)今まで発行していた栄和月報が「よきおとずれ」と改称されて、内容も広くされたものとなりました。その年に大阪聖書神学校が石橋教会の中に設立され、当時、土屋一臣師も教鞭を取ってくださいました。10月にバルザー先生の伝道しておられた長瀬教会も献堂されました。1961年「朝の光」の放送伝道が開始され、教団として羽鳥先生を迎えて信徒修養会なども開き、教団の信徒も増加し加えられて行くなか「主にあって一つ」の方向を目ざして強められてきました。1963年にはロバート・エンズ師ご一家が来日、英会話伝道が始められました。1964年、石橋教会のフリーゼン師ご帰国になる事で、あとを受けて、私がご奉仕させて頂くことになりました。この年にミス・ボーリン・ピータース師が来日され、エンズ先生とともに若い人々への英会話伝道をしてくださいました。またその年には服部霊園納骨堂が完成しました。1965年(昭和40年)新改訳聖書が出版され、MB教団も、それを用いるようになりましたが、私は入信した時は、文語訳、5年後には口語訳、10年後にこうして新改訳となり、暗唱聖句にも困惑したものです。この年も神様は多くの恵みをくださいました。3月に港教会が献堂、バーテル師から小松師へ、5月には桑名教会献堂、9月には武庫川教会がローランド・ウインズ先生から石賀先生へと。宣教師先生から日本の働き人へとバトンタッチの時期に移っていきました。総持寺教会、今里、寝屋川教会の献堂の喜び感謝の後、私にとって忘れることのできないのは、大阪万博が開催された1970年、私たちのMB教団も中之島公会堂に於いて、「MB宣教20周年福音宣教大会」を三日間にわたり持つ事ができましたが、教会が教団が一つとなって「福音宣教に前進あるのみ」と神様に示されました。あれから20年、今40周年を迎えることができましたが、主に心から感謝をささげます。そして、私たちのために故国を離れてご苦労下さった宣教師の諸先生や諸兄姉に心から感謝しつつ、前進して行くことができますように心から祈ります。