1022、親戚・日本・米国への不信の中、父はバーテル師の神を信じた

 昨年の1月10日に父は死んだ。明後日で一年である。最後父と手と手でタッチした後、教会に車を置きに行った30分の間に召された。私には心残りがない。なぜなら父自身は心の叫びをアルツハイマーで次第に忘れていったのであるが、その忘れつつある状況にあった80歳の時の手紙をそのまま葬儀式で全文読むことができたからだ。私が司式をし、式を主導することで、それが実現できた。父へのどのような評価も、父の立場や功績も、語る時間を失うほど、父自身の手紙に集中した。結果的にそれでよかったと思う。正直、武庫川の人たちはアルツハイマーの父しか知らない。突然叫んだ父しか知らない。でもそれでよかったのだ。父に対する称賛の言葉を一つもあえて入れることなく・・。私は父との約束も果たしただけでなく、祖母との約束も果たしたことをうれしく思っている。

 祖母には田舎に車で送るからねという約束を実現させることができた。奇跡的なことだった。高松で別れるとき、祖母と手と手でタッチして、祖母は心からありがとうと言ってくれた。心が通じた。祖母の葬儀は教会の葬儀と重なり参列できなかったが、それでも心の安堵は今も続く。不思議なものだ。

 今、私の手元には「天皇とキリスト」土肥昭夫という書物がある。まだ読んでいない。生前の父に勧めらた本である。ほとんどの文章に父の線が引かれている。父はここに書かれてあるような内容を論理的に人に話すことができなくなっていったのだろうなあ。アルツハイマーにより、パッションだけがたまり、叫びになっていった。また天皇を語るなどタブー視されている風潮のなかで、誤解を招くような叫びにいつも気が気でならなかった。しかしここに書かれてあることも含めて伝えたかったのだと思う。書斎は今もそのまま、書斎には天皇に関する書籍が今も多く残されている。父が論理的にわかりやすく語れなかったのも一つであるが、今だに、日本人は天皇についてわかりやすく語れないのだから、当然だろうとも思う。また天皇自身も象徴としての自己アイデンティティーを求め続けておられる苦悩のなかにおられたように思う。そのようななか、父はどうも天皇の気持ちになろうとしていたのだろう。少しだけ気づき始めた。