1、神さまは個人的関係で繋がろうとしてくださっています。
2、しかし人は個人的関係アプローチの現象しか見えません。
3、ですから人はまず現象からそのアプローチに気づきます。
父が召され、母がホームに入り、父の書斎に入ることもあり、そうすると、クリスチャン一代目の父の叫びが響いてくるようになりました。父が召された時、葬儀で読んだ80歳の父が書いた手紙から叫びを聞き、素直に叫びを叫びとして受け止めることができるようになったのです。父があらゆる教派の礼拝、運動、講演会、委員会、セミナーに顔を出したのも、結局、父に叫びがあったからだということがわかるようになりました。父も叫びを聞いてくださる主と共に生きた人でしたが、しかし最後は、叫びを地上に残したまま、認知症になり、天に帰っていきました。ですから、今、私は父の書斎の椅子に座り、父の叫びを反芻することになっています。この父の叫びが2代目クリスチャンの私のエネルギーのようになりつつあります。つまり年代を超えて、叫びが引き継がれようとしていることの希少価値に使命さえ覚えるようになっています。
「アブラハムの神」に理念はなかった。啓示の神がアブラハムに啓示された時に出会った頃、全く理念はなかった。また「パウロの神」にも理念はなかった。啓示の神がパウロに啓示された時に出会った時点では理念はなかった。しかしパウロがキリストと共に生きていく中で理念ができていった。例えば、パウロの「エンクリスト」という概念は、後になってパウロによって神学化された概念であった。パウロの中心に神との「我と汝」(ブーバー)があり、周辺に神についての「我と其れ」(ブーバー)があった。周辺の「我と其れ」は哲学であり神学である。パスカルが「哲学の神でなく・・アブラハム神」に祈ったのは、「我と汝」の神に出会ったということである。ブーバーはユダヤ教であるにもかかわらず、これはパスカルの回心であったと信じている。
仮に、ある人が、「我と其れ」の世界にどっぷりつかって、非人格的世界で非人格的関係だけで生きるような人になっていたとしても、それでも「我と汝」を喜ばない人は、一人もいない。「我と汝」を喜ばない人は一人もいない、と信じ抜いて生きよう。なぜなら、神はそのように我々人間に向き合われたように思うからである。
「一匹」が強調されている。また「ちいさい」も強調されている。「一匹」は、「我と汝」(ブーバーの言う根源語)の関係を表し、「九十九匹」は、「我とそれ」(ブーバーの言う根源語)の関係を表す。話の聞き手はみんな、この例え話に納得することを前提にこの例え話が語られている。つまり聞き手はみんな「我と汝」を信じ、期待しているのである。理屈ではない、人間は本来、「我と汝」を信じ、期待しているのである。「永遠の汝」であられる神を信じ期待しているのである。