1225、留まる是、出て行く是、追い出される是

宗教改革においては

1、留まる是はカトリック

2、出て行く是は再洗礼派

3、追い出される是はルター(プロテスタント

 

どの道にも嵐あり、冒険あり、である。

1、やはり留まる是は、包括主義が生命かな?

2、やはり出て行く是は自発主義が生命かな?

3、やはり追い出される是は調整が生命かな?

 

1、留まる是の包括主義も限界がおとずれる

2、出て行く是の自発主義の多くは最初だけ

3、追い出される是も調整能力に限界が来る

 

1224、神さまは個人的関係で繋がろうとしてくださっています。

1、神さまは個人的関係で繋がろうとしてくださっています。

2、しかし人は個人的関係アプローチの現象しか見えません。

3、ですから人はまず現象からそのアプローチに気づきます。

4、現象の中心に受肉と受難と復活と聖霊と再臨があります。

1223、何が大切なのか、何が残るのか、「叫び」だと本当に思うようになった

 父が召され、母がホームに入り、父の書斎に入ることもあり、そうすると、クリスチャン一代目の父の叫びが響いてくるようになりました。父が召された時、葬儀で読んだ80歳の父が書いた手紙から叫びを聞き、素直に叫びを叫びとして受け止めることができるようになったのです。父があらゆる教派の礼拝、運動、講演会、委員会、セミナーに顔を出したのも、結局、父に叫びがあったからだということがわかるようになりました。父も叫びを聞いてくださる主と共に生きた人でしたが、しかし最後は、叫びを地上に残したまま、認知症になり、天に帰っていきました。ですから、今、私は父の書斎の椅子に座り、父の叫びを反芻することになっています。この父の叫びが2代目クリスチャンの私のエネルギーのようになりつつあります。つまり年代を超えて、叫びが引き継がれようとしていることの希少価値に使命さえ覚えるようになっています。

 

1222、ほとんどのキリスト教用語は、「神と繋がるため」にある

「悔い改める」というキリスト教用語がある。「悔い改める」ことが大切だというが、見落としてはならないのが、何のために悔い改めるのか、である。「悔い改める」のは「神と繋がるため」である。そればかりか、聖書のなかには人と人が繋がるためのキリスト教用語もいっぱいある。

1221、「現実の世界とは神との関係の世界である」(ブーバー)

ブーバーは「現実の世界とは神との関係の世界である」と言う。そう聞くと、私たちはすぐにこの世と完全分離した神秘主義の世界を思い描いてしまう。しかしブーバーの世界は、何もこの世と完全分離した神秘主義の世界ではないようだ。「永遠の汝」である神との「我と汝」の関係がまずは中心にあり、周辺には「我と其れ」の世界が「認識」の世界となる。この世界にどっぷり浸かって生きている私たちであるが、ふっと「現実の世界とは神との関係の世界である」という認識にスイッチして、ダビデ詩篇を自分の言葉として生きたい。

1220、パスカルの「哲学者の神でなく・・アブラハムの神」とは?

アブラハムの神」に理念はなかった。啓示の神がアブラハムに啓示された時に出会った頃、全く理念はなかった。また「パウロの神」にも理念はなかった。啓示の神がパウロに啓示された時に出会った時点では理念はなかった。しかしパウロがキリストと共に生きていく中で理念ができていった。例えば、パウロの「エンクリスト」という概念は、後になってパウロによって神学化された概念であった。パウロの中心に神との「我と汝」(ブーバー)があり、周辺に神についての「我と其れ」(ブーバー)があった。周辺の「我と其れ」は哲学であり神学である。パスカルが「哲学の神でなく・・アブラハム神」に祈ったのは、「我と汝」の神に出会ったということである。ブーバーはユダヤ教であるにもかかわらず、これはパスカルの回心であったと信じている。

 

1219、「我と汝」を喜ばない人は、一人もいないという信仰

仮に、ある人が、「我と其れ」の世界にどっぷりつかって、非人格的世界で非人格的関係だけで生きるような人になっていたとしても、それでも「我と汝」を喜ばない人は、一人もいない。「我と汝」を喜ばない人は一人もいない、と信じ抜いて生きよう。なぜなら、神はそのように我々人間に向き合われたように思うからである。