宗教改革においては
1、留まる是はカトリック
2、出て行く是は再洗礼派
3、追い出される是はルター(プロテスタント)
どの道にも嵐あり、冒険あり、である。
1、やはり留まる是は、包括主義が生命かな?
2、やはり出て行く是は自発主義が生命かな?
3、やはり追い出される是は調整が生命かな?
1、留まる是の包括主義も限界がおとずれる
2、出て行く是の自発主義の多くは最初だけ
3、追い出される是も調整能力に限界が来る
父が召され、母がホームに入り、父の書斎に入ることもあり、そうすると、クリスチャン一代目の父の叫びが響いてくるようになりました。父が召された時、葬儀で読んだ80歳の父が書いた手紙から叫びを聞き、素直に叫びを叫びとして受け止めることができるようになったのです。父があらゆる教派の礼拝、運動、講演会、委員会、セミナーに顔を出したのも、結局、父に叫びがあったからだということがわかるようになりました。父も叫びを聞いてくださる主と共に生きた人でしたが、しかし最後は、叫びを地上に残したまま、認知症になり、天に帰っていきました。ですから、今、私は父の書斎の椅子に座り、父の叫びを反芻することになっています。この父の叫びが2代目クリスチャンの私のエネルギーのようになりつつあります。つまり年代を超えて、叫びが引き継がれようとしていることの希少価値に使命さえ覚えるようになっています。
「アブラハムの神」に理念はなかった。啓示の神がアブラハムに啓示された時に出会った頃、全く理念はなかった。また「パウロの神」にも理念はなかった。啓示の神がパウロに啓示された時に出会った時点では理念はなかった。しかしパウロがキリストと共に生きていく中で理念ができていった。例えば、パウロの「エンクリスト」という概念は、後になってパウロによって神学化された概念であった。パウロの中心に神との「我と汝」(ブーバー)があり、周辺に神についての「我と其れ」(ブーバー)があった。周辺の「我と其れ」は哲学であり神学である。パスカルが「哲学の神でなく・・アブラハム神」に祈ったのは、「我と汝」の神に出会ったということである。ブーバーはユダヤ教であるにもかかわらず、これはパスカルの回心であったと信じている。
仮に、ある人が、「我と其れ」の世界にどっぷりつかって、非人格的世界で非人格的関係だけで生きるような人になっていたとしても、それでも「我と汝」を喜ばない人は、一人もいない。「我と汝」を喜ばない人は一人もいない、と信じ抜いて生きよう。なぜなら、神はそのように我々人間に向き合われたように思うからである。