ジョン・M・ドレッシャー語録

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」32

最後に、首都ワシントンにあるザ・チャーチ・オブ・セイビアーのゴードン・コスビー師が言われたように「私が自分の教会で起こってほしいと願っていたことはすべて、まず自分自身の生活の中で実現していなければならなかった。」

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」31

私たちは人を変えるようにとは決して求められていない。それは神のなさることである。私たちは人を愛するように命令されている。「愛は決して絶えることがありません。」

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」30

私たちが弱いときにも神は強い。自分の力では一つのことですら霊的に成すことができない、と私たちの弱さを告白することが、実を結ぶことの始まりである。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。」イエスさまはヨハネ15章で二度このこと…

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」29

教会の仕事が重荷となって悩んでいるときは、私たちがその仕事を私たちの主に委ねないで、自分でそれをしようとしているのだと告白する必要がある。神は私たちの戦いを私たちに代わって戦ってくださると約束してくださっているが、私たちが自分で戦おうとす…

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」28

私たちの働きの霊的な成功は、私たち自身にではなく、聖霊によっているということをいつも覚えていなければならない。私たち自身の人生を聖霊の支配に任せれば、結果は神のものである。神からの召しは忠実であることだ。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」27

どの教会にも創造力を持つ多くの人たちがいる。もし牧会者がそういう人たちを見つけて励ませば、大きな祝福になる。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」26

ほとんどの牧師は人との関わりに強い人たちである。しかしながら、週報を作ったり委員会を作ったりというような管理や組織の仕事に縛りつけられてしまうのである。教会の中には、探せばそのようなことが自分よりももっと上手にこなせる人たちがいる。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」25

歴史を通して、この時代の人々が、神が特別な方法で働いてくださるときはすべて終わったと考えるのは驚くべきことである。私はますます、教会は勝利するものであるという確信を深めている。イエスは言われた。「わたしはわたしの教会を建てる。地獄の要塞も…

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」24

すべてがうまく行っているように思われるときには一生懸命祈りなさい。そして他の人々も一緒に祈ってくれるように励ますこと。サタンは成功しているあらゆる教会を狙っている。サタンは私たちが誘惑に陥るようにする。サタンは教会を分裂させるために、批判…

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」23

霊的生活において成長したいと願っている人々とともに働くべきだ。私はただ座り続けていたいと願う人たちのことで随分悩んできた。そのような人たちを愛し、コンタクトをとり続けるべきだ。しかし、成長している人たちに自分の中で何が起こっているのかを語…

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」22

陥りがちな誘惑は、自分の周りに自分と同じ賜物を持つ人たちを集めようとすることである。そうすると支持され肯定されている感じがし、そのような人たちといるのは心地よいからである。賢いリーダーは自分が持っていない賜物を持っている人たちを選ぶ。そう…

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」21

有能なリーダーたちは指導や管理の基本は、他者の働きを通して物事がなされることであると理解している。私たちは専門化することで、効果的な働きができる。私たちはあらゆる分野において効果的であることはできない。自分の得意なところを見いだしてそれを…

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」20

人々が教会に聖書を持って来なくなるのは、その前に牧師たちが聖書を使わなくなり、説教の中でも聖書を使わなくなるからである。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」19

中高生が教会に満足していれば、親たちも満足する。もし中高生たちが教会に不満足であるならば、遅かれ早かれ不満足な親たちを抱え込むことになる。もし私が再び牧会するとしたら、何らかの形で中高生たちに毎回礼拝の中で役割を与えるように考える。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」18

誰かが他の人の非難を持って来た時は、聖書が教えているように、自分が付き添いとしてともに行き、非難する人が去ってから、非難されている人に話をしなさい。そうすることで多くの苦情や争いが解決される。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」16

心痛むことであるが、自分に対する批判に耳を傾ける必要がある。そうすることで自分自身について何かを学ぶことができる。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」15

「神が既に働いてくださっているという信仰を持たずにする働きは、むなしい労働である。」信仰の目を持って働くということは、キリストにある各人の可能性を見るということである。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」14

神が時々働いてくださると信じるのはたやすいが、神が今も働いてくださると信じるのは非常に難しい。強い信仰とは、今この時にも輝いているものであり、神の御手のわざを今日も見ていくものである。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」13

私はイエスに対して友でありたい。これはしもべを越えた関係である。それはイエスが次のように言われたからである。「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべは主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。…

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」12

自分の敵である人は、神の恵みと助けによってその人が友人となれば、最高の擁護者、また支持者になり得ることを覚えていただきたい。人は誰でも、近づくための入り江を持っており、私たちが周りを十分に時間をかけて漕ぎ回りその入り江を捜すなら、必ず見つ…

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」10

人々は教会が「破滅に向かっている」と思っている時には、私たちから励ましや恵みを受けたり、燃える思いを持ったりすることは決してない。教会は「栄光に向かっている。」ということを覚えておいて頂きたい。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」9

実を結ぶのは、新しく成長した枝である。そして新しく成長するために、私たちは枯れた部分や実を結ばない枝を、主に、切り落としてもらったり、実を結ぶ枝を剪定してもらう。この過程は苦痛を伴うことが多いが、霊的生活にとっては非常に実りあるものである…

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」8

私はアフリカのカサリ司教の「聖霊の風が吹いている時は、錨を下ろすのではなく帆をあげてください。」という言葉に感銘している。教会の中には霊的な生活が活気に満ちている時、錨を下ろそうとする人が必ずいることを覚えておいていただきたい。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」7

イエスを個人的に知らなければ、聖書は一種の組織神学の教科書になり、自分の見解を証明する道具となる。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」6

キリストを個人的に知るまでは、私たちはただ異なる考え方を受け売りする者に過ぎない。人々がキリストと生き生きとした、誠実な、愛に満ちた関係を持って、イエス・キリストに固く結びついた奴隷となるように助ける代わりに、他の人々を自分の確信している…

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」5

私たちはキリストと生き生きとした関係を持っていなければ、使徒の働き8章のシモンのように、人々を引きつけるため、もしくは自分の影響力を増すために、新しい魔術をいつも探し求めるようになる。私たちには、日々キリストとの交わりが必要である。そうでな…

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」4

リーダーたちが霊的に成長していないと、人々の中に霊的な動きが起こらない。リーダーたちが成長していると人々も応答する。他の人を霊的に力づけると、自分も力づけられる。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」3

霊的なリーダーは、道を知っているだけではなく、また道を示すだけでもなく、実際にその道を進む者でなければならない。私たちは自分が忠実でないのに、他人が忠実であるように、心を開くように、罪を告白するように、弟子訓練をするように、祈るように導く…

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」2

2、牧師たちに特に言えることは、神は私たちの能力よりも、「御心のままに用いてください」という姿勢を求めておられるということである。

ジョン・M・ドレッシャー語録「私が学んできたこと」1

1、キリスト教とはキリストであり、キリストがあらゆるメッセージや決断、行動の中心でなければならない。教会で祈られる祈りの中には、キリストがその中心にない場合やキリストが全く無視されている場合がある。そのような祈りなら他の宗教でもすることがで…