主観と客観、歴史と実存、公的と私的

 ああ、私が「主観」と「客観」というふうに二つに分けて考えるようになったのはいつ頃だったのでしょうか。その頃、少し賢くなったような気になりました。私が「歴史」と「実存」と言うふうに二つに分けて、考えるようになったのはいつ頃だったのでしょうか。ちょっと賢くなったような気になりました。また、私が「公的」とか「私的」という言葉で考えるようになったはいつ頃だったのでしょうか。現代を生きるためには、通常は、主観とか客観と言うふうに、二つの視点に分けて物事を理解するのはごく当たり前のことでしょう。しかし私は、これらの言葉を使うようになった時から、それまで自然に持っていた魅力的な伝達能力を失ったのでないかと思うようになっています。

 パウロ先生曰く「さて兄弟たち。私があなたがたのところへ 行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエスキリストすなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」(第一コリント2:1-2)