三位一体教No.5(連続物ですので面白くない方は読み飛ばして・・・)

一神教だから 多神教だから」

 私が「三位一体教」と言う言葉を使うのは、私の耳に「一神教だから」「多神教だから」という声がよく聞こえてくるので、そんな単純なもんじゃないということを伝えたい一心からです。

 特にイラク戦争以降、「一神教」のある一面ばかりが聞こえてきます。かつての日本における、キリスト教の少しばかりの追い風時代に、一部の知識人がキリスト教文化に対する極端な良い評価をしてくださったことに対する反動からなのでしょうか。最近は「一神教だから寛容になれないのだ。」とか「一神教を魅力的だと感じた青年時代はあったが、今は心情的に一神教に対して距離を感じてしまう」とか、全体的に「一神教=非寛容」という構図で話されるような内容が伝わってくると、「なんでこうなるの??」と言った気持ちになります。日本人もイエスのイメージを描く時、髪の毛が長く、ひげが生えていて、やさしい眼差しを思い浮かべてくださる方が多いのに、なんで最近は、非寛容イメージを持つ方が出て来るのでしょうか。きっとアメリカと言う国と、前大統領ブッシュ大統領の態度がもたらしたものなんでしょう。でも何か問題が生じると、すぐに「一神教だから」とか「多神教だから」と、そんなふうに単純に言わなくても良いと思うのですが、この言い方、なんとかならないのでしょうか。

 例えば、こんな言い方はよくされています。2001年9月11日のニューヨークのあの事件以降、表面化した、テロの問題でも、結局「一神教」であるイスラム教とキリスト教の「一神教」同士の対立構造だと見て、その蚊屋の外にいる日本のような「多神教」の国にこそ平和貢献ができるのだ、と。でも9.11への復讐心から生じた行動は、一神教がどうの、多神教がどうののレベルではないと思うのですが・・・。

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