皆さんは、キリスト教の聖書が、旧約聖書と新約聖書とに分かれていることをご存知でしょうか。イエスさまが生まれる前に書かれたものを旧約聖書と言い、イエスさまが生まれた後に書かれたものを新約聖書と言います。その旧約聖書のなかに、神がモーセというユダヤの指導者に対して語りかける場面があります。映画「十戒」を鑑賞された方は思い出してください。そのときに神がモーセに対して語りかけられた言葉は厳かな哲学的な語りかけでした。それは「『私はある(存在の根源)』というものである」というものでした。
「私はある」というものである。
しかし、もし神さまが、ただの「一」なるお方であるならば、モーセに対して、このように自己紹介をするなんてあり得ないことだとも言えます。なぜなら、神さまが、ただの合理的「一」なるお方であるならば、神さまは二人以上の交流の未経験者だということになり、そんな二人以上の交流言語を知らぬお方ならば、モーセに対してこのように自己紹介等できるはずかないということになります。しかし自己紹介なさったということは、神さまは単なる合理的「一」ではなく、すでに神の中に交流相手を持たれたお方であったということではないでしょうか。別の言い方をすると神の中ですでに共同体的交流を持たれていたということではないでしょうか。(神が全知全能なるお方だと言うことでこのような議論も不要かもしれませんが・・・)
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