RACジャーナル2001年、第十月号「力強さと美しさと即興性:天田論文への応答

 昨年、恩師天田繋先生が召されたことを思い起こしながら、天田論文への応答の論文を読み直していました。この応答をすることになった理由は、どうも天田先生が私を紹介してくださったことによるものだろうと思っています。天田先生は長老教会に忠実に仕える音楽家でした。私はメノナイト教会に仕えるものとして異なる考えを持っていましたが、いつも天田先生は私の考えを尊重してくださいました。この短い応答論文を書いた直後、先生に、あんな応答してしまって、すみませんと謝りました。


「力強さと美しさと即興性:天田論文への応答」
武田信嗣 日本メノナイトブレザレン教団武庫川キリスト教会

 要約
 初代教会の賛美において、すでに斉唱賛美と合唱賛美の併存の種子が観察される。それゆえ、斉唱賛美が聖書的で合唱賛美が文化的だという天田繋氏の論理的枠組みは厳密さを欠いている。また力強さと美しさという要素に加えて、即興性を追求できる自由な空間が、礼拝の中に許容される必要がある。

 キーワード:初代教会の賛美、斉唱賛美、合唱賛美、天田繋、力強さ、美しさ、即興性、礼拝

 天田氏が主張する賛美における「力強さ」と「美しさ」という対比は、文化を超えた普遍的要素であり、現代文化に適応する教会音楽を模索するにあたっても、有効な道しるべになると考えられる。確かに、斉唱賛美と合唱賛美を分離的に併存させることで、この二つの要素の特質が明らかにされると思われる。また、礼拝者は、それぞれの賛美の仕方の背景にある歴史的に継承された霊性を受け取ることができるであろう。天田論文は、宗教改革における礼拝学の伝統を重視しながら、現代文化においてこの二つの要素を調和的に表現するための具体的なモデルを提示するものである。

 しかし、天田氏の「聖書的には斉唱賛美に正当性があるが、現代文化への適用を考えるならば合唱賛美を併用するべき」という論理的枠組みは厳密ではない。すでに聖書時代から、斉唱賛美と合唱賛美の併存の種子が観察される。たとえば、「詩と賛美と霊の歌」という初代教会の表現は、当時から多様な音楽が存在していたことを示唆している。実践的に考えても、斉唱賛美だけが心を一つにするための唯一の方法ではない。おそらく、一致の聖霊が、様々な一致のための創造的な方法を、当時の聖徒たちに与えたと思われる。

 さらに「霊の歌」という表現の中には、即興的という要素が含まれていると思われる。天田氏が考えている斉唱賛美も合唱賛美も力強さと美しさという特徴の違いはあるが、いずれも礼拝の秩序を保つという共通の焦点があるようだ。もちろん、無秩序な主観主義者に、礼拝が占領されるような事態は避けなければならない。しかし、自由な感情の発露や自発的で創造的な信仰の表現は、「静かすぎる」礼拝を活性化させる要素でもある。

 私は伝統にとらわれずに自由に賛美をするグループの中で育てられた。ベースのパートをまろやかに歌う宣教師の声に「神がそこに存在している」という温かさを覚え、自由にパートを歌ってもいいんだと思ってきた。また宣教師夫人が天国を思わせるような半音階奏法で伴奏するのを見て、あれも「していいんだ」と思ってきた。「音楽に関する前提の多くは文化的に条件づけられている」(Leaver,2001:51)のである。それゆえ、私の教会文化の視点から述べるなら、力強さと美しさに加えて、即興性を追求できる自由な空間が礼拝の中に許容される必要があると思うのである。