賛美の「場」

 車を運転していると、私の車の前に、魚マークのJESUSのステッカーが貼られた車が信号待ちで停まっていた。青年のクリスチャンが一人で運転している。一生懸命賛美しているのがわかる。信号待ちで賛美している。おそらく車中はCDかハードディスクかスマホなどから転送した賛美が鳴り響いているのであろう。この青年は賛美に包まれて信号待ちで賛美していた。しかし、この青年は、車のなかで歌っているのではあるが、実際は、楽器がセッティングされている礼拝堂かスタジオかコンサート場を想像しつつ歌っているのであろう。
 
 ですから、この青年が自分の教会の礼拝に行くと、必ずしもその礼拝は、このCDの設定通りの礼拝ではないだろう。しかしこの人のイメージのなかでは、きっとCDで聞いた礼拝音楽が満ちているはずだ。礼拝に10人ほどしか来ていなかったとしても、1000人級の賛美が捧げられているように感じて賛美しているのだろう。

 賛美を考えるとき、この人は、どのような「場」をイメージして賛美しているか考えてみるのも面白い。なぜなら私たちの賛美は、どのような賛美であったとしても、やはり共に集う集会で育つものだからである。私の中学生時代の賛美は、キャンプ場という場の設定で感動して歌った歌集「友よ歌おう」を教会で歌った。また今の聖歌のもとである、「福音唱歌」もある時期のアメリカのキャンプミーティングという場で育ったものであり、あんなのは賛美歌ではないと当時のアメリカの既成教会からは言われ続けたのである。私の子供の頃のビリーグラハム大会などの大挙伝道で聞いた曲も確かに大挙伝道のスタジアムで育ったものである。少ない人数では再現できない「聞く賛美」「歌う賛美」を大挙伝道は再現してくれたように思う。ですから、これからも礼拝の「場」の賛美がほしい。と同時に礼拝の「場」の賛美だけではなく、少人数の場の賛美もほしい。また個人の賛美、自然の場を背景とした賛美もほしい。