1233、人生、孤立に向かう因は幾らでもある、だから・・・

人生、孤立に向かう因は幾らでもある。成功してヒエラルキーのトップになると孤立する。年齢を重ね友人が亡くなると孤立する。一対多の二元構造の罠に陥ると孤立する。孤独を楽しもうと人と交わりを断つともちろん孤立する。一番身近な友人、隣人とうまくいかなくなると孤立する。共同体から離れ、別の共同体に行った時、適用できなかった場合、孤立する。「我と其れ」に関するあらゆる情報でバランスをとって生きていても、「我と汝」を知らないがゆえに孤立する。対話できる人よりも対話できない物だけに依存するようになると、孤立する。究極の永遠の汝を知らないがゆえに孤立する。人生、孤立に向かう因は幾らでもある。だから孤立しないように生きるというネガティブにも見える目標は結構重要な目標だと思う。人は孤立すると見えなくなり、全体も部分もつかめなくなるがゆえに状況が見えなくなり、対話できなくなり、余裕がなくなり、ユーモアが出てこなくなり、バランスが崩れていく、これがこわい。

1232、もしすると人間は独話と独話の独話同士で対話の演技をしているのではないか

 もしかすると人間は独話と独話の独話同士で対話の演技をしていのではないか。もしそうならば、これこそが「お笑い」である。確かに「お笑い」で面白いのは、独話と独話で対話の演技をしている人間の真実を明らかにしてくれているような「お笑い」である。昔、こんなことがあった。一人の求道されている方にお祈りすることをお勧めした時、その方は一度は祈ろうとされたのであるが、突然「独り言みたい」と言われて笑ってしまわれた。当時の私は、そのような反応に困ってしまったが、今思えば、これって深い内容だと思う。人間は本来、独話のほうが得意なのだ。神との対話である祈りを本気で信じることができないものなのだ。そこを乗り越えることがクリスチャンの道である。つまりブーバー「我と其れ」の世界から「我と汝」の世界に変わる瞬間である。

1231、カウンセリングも独話の療法だと思うのです

最近、これは独話だろうか、それとも対話だろうか、と考えることが多くなりました。対話の追求の世界もあるけど、独話の追求の世界もあるんだろうなあと思うようになりました。突き詰めれば、本当の対話は人格関係的方向に行くが、本当の独話は非人格的方向に行くだろうなあ。きっとロジャーズのカウンセリングよりも12ステップの自助グループのほうがちょっとは対話に近いんだろうなあとも思う。しかし人間の知とは通常、独話的世界で確立していく世界のことなんだろうなあと思いつつ、私は迷いの森で今日もさ迷う。

1230、クリスマスは私たちの神像を打ち消すためにあるのではないか

クリスマスは私たちの神像を打ち消すためにあるのではないか。当時、誰一人として完璧な神像でキリストを迎えた人はいなかった。マリヤもシメオンもアンナもみんな、自分たちの神像を打ち消されざるを得ない経験をした上でキリストに出会ったはずである。21世紀の私たちの時代も同じである。お金による支配構造を神とする人たちがいる。軍事力による平和実現という神像を描く人たちがいる。自分を神として描き自分の世界を広げる以外のことは考えていない危ない人たちもいる。自分も神の一部だと汎神論の世界に吸い込まれている人たちもいる。無神論というものの実は無神論という神を拝む信仰者たちもいる。突き詰めて考えていくと、やはり人間は自分の考えのなかで神を所有したいのである。自分の描く神を所有することで安堵に至ると信じているようである。非人格的な神像を所有すると、反対にそれに縛られていくのが偶像崇拝というものであり、依存症現象なのである。しかし、そのような人間の神像が空しく消え去っていくしるしが、クリスマスの飼い葉桶のイエスさまである。アーメン・・・

1229、中心があって、中心から周辺に向けての距離に関心を持とうと思う

 中心があって、中心から周辺に向けての距離感に関心を持とう。中心があり周辺があるというイメージに集中したい。では中心に何があるのか。中心には存在があるが、同時に関係がある。関係があるということは対話があるということである。対話があるということは、異なるもの同士の人格関係的対話があるということである。中心に異なるもの同士の対話があるということはどうゆうことか。中心に永遠の汝、「我と汝」の対話がある。永遠の汝、「我と汝」の対話を支えてくれているのがイエスキリストである。我々は「イエスキリストの御名を通して」祈るのである。では周辺に何があるのか、周辺には「我と其れ」がある。周辺に行けば行くほど、距離が離れれば離れるほど「我と其れ」非人格関係的な世界に入っていくことになる。

1228、保守的な同じ結果を目指して、別の方法論を探し求めよう。補完するために

牧師は周辺的事項については、それぞれ異なる神学を反映させていると思う。それぞれ確信を頂いているからだ。しかし中心的事項に関しては保守的な同じ結果を目指していると思う。保守的な同じ結果を目指さねばならない。ただ別の方法論で保守的な同じ結果を目指すロマンがあっても良いと思う。補完神学だという位置付けをしっかりしながら・・。