日曜日の説教、第一ヨハネ1章1〜4節

 今週の日曜日は、イエスさまを共有するものたちの交わりはすばらしい、という説教でした。そして言葉の違いがあったとしても、必ず心が通ずるという喜びを証しをしました。そのような説教の後、夕方頃、突然、一人の三十歳代の兄弟が教会に来られました。この方、今はホームレスなんだそうです。私は朝の説教でキリストにある交わりについての説教をしたばかりでしたので、この方がクリスチャンの方ならば、心からの交わりができると信じて、腹をくくって一晩お交わりをしました。責任上、私も一緒に泊まったのですが、お交わりをするなかで、最終的に、私は、この方に、ご両親の所に帰るようにお勧めし、ご両親の家までの交通費を出してあげました。聖書には放蕩息子のたとえがありますが、放蕩息子のような状況ってやっぱり時代や文化を超えて普遍的なものだなあと思いました。この人、帰れば親がいる状況であるのは、この放蕩息子のたとえと同じだなあ。放蕩息子のたとえでは兄さんが実家にいるのですが、彼の場合は弟家族が実家にいるのだそうです。惨めな状態で帰りたくない気持ちはわかる、でも主の祝福がありますように。元気になったらまたこの教会を訪れなさいと握手をして別れました。

 教会にいるといろいろな人が来られます。私も、お金のことでは、何度騙されたかわかりません。でもまだクリスチャンには騙されたことがありません。弱いクリスチャンでも、未熟なクリスチャンでも、依存症的な癖のあるクリスチャンでも、イエスキリストを共有し共感することができる、という信仰をこれからも持ち続けたい・・・。イエスキリストを心から共感できないクリスチャンならば、首をかしげることになると思いますが・・・。