1200、礼拝でまず人格神体験をし、聖書に理由を求め、信じるという順番

礼拝でまず人格神体験をし、聖書に理由を求め、信じるという順番だと思う。もしそうならば、教会の礼拝が救いのために中心的な出来事となる。「この感じはいったい、何なんですか。」そこで聖書から説明した結果、イエスさまを救い主として信じるという順番だと思う。未信者が経験した現象をクリスチャンが説明する、牧師が説明する、という形が一番、弁明しやすい。その場合注意せねばならないことは、クリスチャンが初心者が感動していることを理解してあげていないということである。クリスチャンのちょっとしたことが、初心者にとって感動に値することであることをクリスチャンが知っておくということである。安心できる場を知らない人が、教会が安心できる場だと知った時の感動はどんな感動であろう。自力がすべてだと思っていた人が教会で自力でない世界を垣間見た時の感動はどんな感動であろう。また愛を信じることができなかった人たちが、自然に愛の交流ができている姿を見た時の感動はどんな感動であろう。たとえ、教会に問題が生じても、それが解決されていく様子を見るときの感動はどんな感動であろう。見るからに感動的な賛美、見るからに感動的な説教、見るからに感動的な証しだけが感動ではないのだ。それを超えたところを初めての初心者は見ているのである。そこに対して我々は謙虚にならねばならない。やはり、礼拝でまず人格神体験をし、聖書に理由を求め、信じるという順番だと思う。