日本MB歴史(1)

ミネソタ州マウントレイク教会での北米MB44回総会】
 太平洋戦争終戦3年後、1948年8月28日より9月2日まで、アメリカ中北部ミネソタ州のマウントレイク教会で北米MB第44回総会が開催された。この会期中、8月31日(火)午前9時からのビジネス・セッションで、メノナイト・セントラルコミュティ(MCC)によって、日本での救済活動を始め、将来、これを福音宣教に移行させることを考慮して、まずメノナイトブレザレン教会より人材を供与することが決議された。また日本における宣教地の確定、その他にはついては、ミッション・ボードが、さらに調査研究を進めていくこととなった。そして、その後、ヘンリー・G・ティルマン、リディア・ティルマン夫妻を、メノナイト・セントラル・コミュティ(MCC)ワーカーとして、三年間派遣することが決定された。北米MB総会が開催されたマウントレイクは初代MB宣教師ルース・ウインズ師の母教会でもあった。ルース・ウインズ師はマウントレイクの牧師夫妻の長女として生まれ、この地で育たれた方である。

【大阪への導き】(なぜ大阪??)
 派遣が決定されたティルマン師夫妻は翌年1949年3月26日、キチナーを出発し、1949年4月24日に、一ヶ月かかって無事日本に到着した。船は最初、横浜に入港したが、上陸許可が出ず、やむなく船内で過ごし、再び海路、神戸に向かい、26日の朝、神戸についたが、船内に一泊して後、やっと上陸することができた。

 ティルマン師夫妻は、来日後、京都の洛陽ホテルに二ヶ月余り滞在し、その間、祈りのうちに大阪を視察していたが、たまたま、賀川豊彦師と共に「イエス団」の働きを展開していた吉田源治郎師から、大阪駅近くで、英語で話しかけられて、種々、語り合ううちに、大阪で奉仕をなすことに、主の導きを覚え始めた。

此花区春日出への導き】
 ティルマン師は、まず、大阪市長に会って、来日の目的を伝え、三日間、市内各所の案内を受けて視察し、多くの祈りと熟慮の後に、主の御旨を確信し、導きによって、大阪市此花区春日出町6丁目7番地に、空襲のために焼け跡となっていた土地を入手し、ここに、アメリカより取り寄せたプレハブの資材で、二棟の救済センター(MCCセンターと呼ばれるようになった)を設立した。しかし、この地は、大阪駅近くで、ティルマン師に英語で話しかけてくださった吉田源治郎師と賀川豊彦師が創設した「四貫島セツルメント」(1925年創立)のある地域で、すぐ目の前には、1年前に献堂式を終えたばかりの賀川豊彦師創設の日本基督教団四貫島教会(友憐館事務所、天使保育園)があった。教会の隣地に別の教会が土地を入手することなどあり得ないことであるが、MCCという団体が救済団体であったがゆえに、吉田師のご理解のもと、道が開かれたのであろう。

【MCCセンターでの働き】
 MCCセンターは1949年10月のはじめに献堂式を行ない、活動が開始されたが、伝道活動のほか、他のMCCワーカー、及び、日本人クリスチャンの協力を得て、小さな遊園地の建設、子供会、英会話クラス、バイブルクラス、洋裁教室、歯科治療、アメリカからの衣類、包帯、食品の配給など、多忙に明け暮れる日々であった。その間、ジェーン台風(1950年)のため、施設全部が、水害で、海水につかってしまったり、経済的に窮することもあったが、三年の間、良きサマリヤ人のわざに励み、多くの人々に惜しまれながら、1952年3月22日、ジャパ・メイル号で横浜より帰途に着いた。

参考「メノナイトブレザレン教会 初期日本宣教小史」(有田優)P1-5