1173、私は「ジーザスセンタード」で行く。でも別のセンタードが来るぞ

私は「ジーザスセンタード」で生きる。「ジーザスセンタード」とは、キリストとの「我と汝」の人格関係があることを何よりも中心に据えること。「我と汝」の人格関係があるということは、そこに「祈り」があるということであり、実際に祈ることであり、祈りの最後に「イエスキリストの御名によって祈ります」ということである。これを中心に据え、周辺は、外になればなるほど相対化実験を繰り返しつつ、境界線と思われる領域に忍耐と寛容を働かせる。相対化実験とは相対化により、絶対なる中心を浮き立たせることの実験である。また「ジーザスセンタード」は、別の価値観のセンタードがあることを意識する。つまり、世の価値観もセンタードで来る。異教的価値観もセンタードで来る。気をつけねばならないのは、我々の忍耐以上に、そちらの価値観も忍耐するということである。