1260、定年を前に、自分の弱さを憂いつつも、次のことを肝に銘じて生きていきたい

  1. 名前を呼び合って輝こう!!(輝く人生)
  2. 自発(応答)で生きよう!!(聴く人生)     

  3. 邪魔くさがらずにやろう!!(動く人生)             
  4. ついでを理由に楽しもう!!(遊ぶ人生)
  5. 記憶のために記録しよう!!(旅の人生)
  6. みな芸人、バレたらいい!!(芸の人生)
  7. 12ステップは、続けるぞ!!(解く人生)

 

1259、ローゼンツヴァイクのこの言葉は、公同礼拝での賛美と祈りの根拠となる。

名前の哲学144頁「われわれは自分たちがこの神の名を一緒に呼ぶことによってはじめてわれわれになる」(ローゼンツヴァイク2011.107頁)この言葉を読みながら、10人のツァラアトが、イエスさまに向かって、離れたところから「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言ったあの様子を思い起こした。 

1258、名前があるのは、神に祈るために、神に呼ばれるために、呼称として名前があるのだ。

神が私の名前を呼んでくれる、というのは違和感がある。なぜなら私の名前は親がつけた名前だからである。神がつけた名前ではない。同じように、私が神の名前を呼ぶというのは違和感がある。だから人間がつけたいろいろな名前で呼ばせてもらう。いろいろな名前が書かれてあって助かるのは詩篇だ。もちろん、詩篇だけでは満足できない。どうしても「イエスさま」と呼びたいから。祈りの相手は父なる神なのに、「イエスさま」と呼びたいのはなぜか。人間になられたイエスさまは「ザアカイ」と呼んでくれた。「サウロ、サウロ」と呼んでくれた。「マリヤ」「ラボニ」と呼び合った。

1256、「神の人格性」を異端は否定し、正統派は当たり前だから、と言葉にしなかった。

「神の人格性ということは、キリスト教の主要な教義であるということは、今日ではしばしばごく当たり前のことのように思われているために、われわれはこの表現を歴史的信条やキリスト教会の告白に全く見出すことがないのみならず、つい最近に至るまで三位一体の教義を否定するキリスト者のほとんどすべての考えにおいては、非正統的なものとみなされていたことに気づく時、驚かざるを得ないのである。」(「キリスト教の神」フェレーの465)キリスト教は人格神の宗教なのに、他の教義に比べて、重要性を主張してこなかった。日本に「人格」という表現が遅れて入って来たのではあるが、世界的にも遅れていた、と思ったほうが良い。

1255、最近、村岡晋一氏の「名前の哲学」(講談社選書メチエ)に共鳴している

 

 「小学校に通いはじめたころ、犬が飼いたくてしかたがなかった。あまりしつこくせがむものだから、父が雑種の子犬をもらってきてくれた。毛が茶色と白のぶちだったので「チロ」と名づけた。「チロ」が庭をよちよち歩きまわったり、ひざうえで眠りこける様子がかわいくてたまらなかった。それまでより早起きになり、授業が終わるのが待ち遠しかった。そのチロが突然いなくなってしまった。家族みんなであちこち探し回ったが、みつからない。ところが、ふたたびひょっこり帰ってきた。この小さな冒険者の帰宅をみんなそれは喜んだが、チロは重い病気に冒されていた。ゼイゼイ苦しそうに息をして、やがてよだれを垂らすようになり、庭のミカンの木の下で死んだ。私があまりかなしがるので、見かねた父がこう言ってなぐさめてくれた。「そんなに泣くな、また代わりの犬ももらってきてやるから」。だが、私にはこのことばがなんとも腹立たしかった。だってチロの代わりがいるはずはないのだから。だが、その「かけがえのなさ」を父に訴えようとして、はたと困りはててしまった。チロみたいにあんなに「かわいい」眼をした犬はいないと言っても、あんなに「性格のやさしい」犬はいないと言っても、チロの「かけがえのなさ」を表現するどころか、「代わりがきく」ことを証明してしまう。なにしろ、「かわいい」とか「性格がやさしい」とはどんな犬にも言えるし、ほかの動物にも、人間にだって言えるからである。せっぱつまった私は父にこう訴えた。「だって、チロはチロなんだから」。私が言った二番目のチロは、あきらかに「チロ」という名前にすぎない。名前だがチロの存在のかけがえのなさを表現するただひとつの手立てなのだ。・・・・」(「名前の哲学」村岡晋一著)

1254、大木英夫氏が1972年に書かれた「現代人のユダヤ人化」読んでみたい

大木氏は言う「ユダヤ人化する現代人はこの書にえもいわれぬ深い共感を覚えるであろう。共鳴して全身が鳴り出すのを感じさえするであろう。」確かにブーバーもクローナーもローゼンツバイクもポラニーもルヴィナスもユダヤ人思想家であった。それからフッサールも・・。