1255、最近、村岡晋一氏の「名前の哲学」(講談社選書メチエ)に共鳴している

 

 「小学校に通いはじめたころ、犬が飼いたくてしかたがなかった。あまりしつこくせがむものだから、父が雑種の子犬をもらってきてくれた。毛が茶色と白のぶちだったので「チロ」と名づけた。「チロ」が庭をよちよち歩きまわったり、ひざうえで眠りこける様子がかわいくてたまらなかった。それまでより早起きになり、授業が終わるのが待ち遠しかった。そのチロが突然いなくなってしまった。家族みんなであちこち探し回ったが、みつからない。ところが、ふたたびひょっこり帰ってきた。この小さな冒険者の帰宅をみんなそれは喜んだが、チロは重い病気に冒されていた。ゼイゼイ苦しそうに息をして、やがてよだれを垂らすようになり、庭のミカンの木の下で死んだ。私があまりかなしがるので、見かねた父がこう言ってなぐさめてくれた。「そんなに泣くな、また代わりの犬ももらってきてやるから」。だが、私にはこのことばがなんとも腹立たしかった。だってチロの代わりがいるはずはないのだから。だが、その「かけがえのなさ」を父に訴えようとして、はたと困りはててしまった。チロみたいにあんなに「かわいい」眼をした犬はいないと言っても、あんなに「性格のやさしい」犬はいないと言っても、チロの「かけがえのなさ」を表現するどころか、「代わりがきく」ことを証明してしまう。なにしろ、「かわいい」とか「性格がやさしい」とはどんな犬にも言えるし、ほかの動物にも、人間にだって言えるからである。せっぱつまった私は父にこう訴えた。「だって、チロはチロなんだから」。私が言った二番目のチロは、あきらかに「チロ」という名前にすぎない。名前だがチロの存在のかけがえのなさを表現するただひとつの手立てなのだ。・・・・」(「名前の哲学」村岡晋一著)