1256、「神の人格性」を異端は否定し、正統派は当たり前だから、と言葉にしなかった。

「神の人格性ということは、キリスト教の主要な教義であるということは、今日ではしばしばごく当たり前のことのように思われているために、われわれはこの表現を歴史的信条やキリスト教会の告白に全く見出すことがないのみならず、つい最近に至るまで三位一体の教義を否定するキリスト者のほとんどすべての考えにおいては、非正統的なものとみなされていたことに気づく時、驚かざるを得ないのである。」(「キリスト教の神」フェレーの465)キリスト教は人格神の宗教なのに、他の教義に比べて、重要性を主張してこなかった。日本に「人格」という表現が遅れて入って来たのではあるが、世界的にも遅れていた、と思ったほうが良い。