三位一体教No.12(連続物ですので面白くない方は読み飛ばして・・・)

 一神教に見る「一」という数字

 さて、まず「合理的一神教」の限界から語っていきたいと思います。どうして限界について語るかというと、「三位一体教」的なキリスト教以外の「合理的な一神教」にはどうしても矛盾する面を持っていることを知ってほしいからです。キリスト教のクリスチャンも、いつまにか、「合理的一神教」の何らかの影響下に入ってしまうので気をつけないといけないなあと思っている面があります。

 「一神教」という言葉には、「一」という数字がありますが、この「一」とは一体何でしょうか。実は、これは、最初、神さまがまだ人間も世界も造られていない頃、「一」として生きておられたということです。そのような「一」なる神が、世界を造られたということです。

 聖書の最初のページには「初めに、神は天と地を創造された」という宣言があります。京都の同志社を創設した新島襄は外国船の船上で中国語の聖書でこの聖書の最初の言葉に触れたとき、自分の体に何か電気のようなものが走ったのだそうです。「一」なる方を知らなかった新島襄が「一」なる方に気づいたときの目が開かれたショックがどんな衝撃的なものであったかがわかります。

 「起初、神創造天地」(現代の中国語の聖書)

 
 その後6日目には神は人類も造られました。しかし、造られた人類は「一」なる神から離れ、「一」なる神を忘れ、生きるようになったのです。そのような人類に対して、神の側から語りかけられる神のラブレターが66巻の聖書でした。さて、ここから、合理的一神教の矛盾について考えてみたいと思います。

※カテゴリーの「三位一体教(連続物)」をクイックすると今までのものが読めます。