ジェームズ・フーストンの「喜びの旅路」

喜びの旅路―狭間を生きるキリスト者たちへ

喜びの旅路―狭間を生きるキリスト者たちへ

 久しぶりにこの本を手に取りました。この部分は何度も読んだのですが、最初に書かれてある「日本の読者の皆様へ」の部分です。

 私たちは皆、文化的遺産を持っています。ですから最初、私は本書を英国と北米の読者を対象に執筆しました。しかし、この度日本において本書が紹介されることになったのは光栄です。日本文化は今、ますます技術を優先する未来へと向って進んでいます。先進技術を優先する日本。預言者のように語りかける本書は、今の日本文化の動向に対して多くの面で対峙するような気がします。この点について説明いたしましょう。
 まず第一に、個人が立身出世することを称揚する北米の文化と比較して、日本文化はかなり集団を大切にします。日本文化について、私に最初に強い印象を与えたのは、雨の日に都心に向う地下鉄から降りてきた人々でした。誰もが傘の中に隠れるようにして歩いていました。ですから人の顔は、ビニール袋に包まれているかのようで、見ることができませんでした。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 互いに相手が人間であると認められないのは危険な状況です。これは技術が人間に対してより大きな影響を与えるようになったのが原因です。どの先進国と比べても、日本がいちばん早く「ロボット文化」を受け入れるでしょう。ロボットは、人間に代わる労働力となるばかりでなく、老人介護施設でも人間に代わって介護をするようになるでしょう。それどころか、ロボットと人間の関係が、いろいろな場面で人間同士の関係に取って代わるようになるでしょう。2020年までに、あるいはそれを待たず2015年までに、日本ではロボットが社会を支配するであろうと予想されています。そうなれば、小説「すばらしい新世界」の中で、英国の作家オールダス・ハックスリーが述べたようなデストピア(理想郷ユートピアと正反対の社会)が成就することになります。
 日本語にはperson(人格的交わり、関係の中で生きる人間)にあたる言葉がないということは、キリスト者に深刻な問題を突きつけます。なせなら、恐れて、遠くは離れることによってではなく、愛情を表すことによって、私たちは神を礼拝し、神を知るからです。・・・・

(彼の文章に日本文化への理解と敬意を表している箇所も幾つもありますので誤解なきように・・)