二・三人の神学(按手礼論文12) 

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)

 そこで、三位一体間の関係性について触れて考えてみよう。三位一体という用語を初めて使用したのは、ティルトゥリアヌス(AD220年以降没)であった。彼は三つの位格を強調し過ぎるあまりに、神の統一性が危険にさらされるのを何よりも憂えた人であった。であるから彼は次のように語る。

 「1なる実体こそ三位一体の基礎であり、論理的には三つ位格に先立つ。重点の置き所は実体の統一性にある。多様性は統一性を脅かすので、極小にせねばならぬ。1なる実体が三つの様態で現れる。子は父から出、子を通して聖霊が出る。三位一体の三位格は統一をなしていて、それ自体三つに別れはするが、同じものである。」1)

 確かに、ティルテゥリアヌスは、1なる実体の統一性に重点を置き、3位格の多様性は統一を脅かすものとして極小にしようとした。ただ、キリスト教西方教会だけではなかった。確かに、西方教会ローマカトリック教会)においては、統一性に重点が置かれたが、東方教会においては必ずしもそうではなかったことは注目しておく必要があろう。なぜ東方教会においては必ずしもそうでなかったということに注目しておく必要があるのか。それは、日本では、「キリスト教存在論重視」「仏教は関係論重視」というような単純化された構図が広がっているように思えるからである。つまりキリスト教一神教の「一」重視の立場であるから、関係論を重視しない立場であると本気で思っている人たちがいるからである。

 例えば、心理学者、河合隼雄氏は西洋は「存在」を重視するが、「関係」を重視しなかったことを前提に次のように述べている。「Aという存在は自性をもっていないが、B、C、D・・・などすべての関係の在り方によってAであり得るし、BもBとしての自性を持たないが、A、C、D・・・との関係の在り方の総和によってBであり得る。西洋においては、個々のA、B、Cの存在の区別を明確にし、後にその関係を考えるのに対して、華厳仏教においては、関係が個々の存在に先行するのである。」2)

 河合氏は「華厳仏教においては、関係が個々の存在に先行する」と言うことによって、キリスト教の考えと仏教の考え、西洋の考えと東洋の考え、の違いを述べようとしているが、果たして、仏教は関係が個々の存在に先行し、キリスト教は個々の存在が関係に先行する宗教なのであろうか。反対に、仏教のほうが存在性を重視したり、キリスト教のほうが関係性を重視したりすることもあるのではなかろうか。

 もし、西洋はキリスト教の影響を受けた存在重視の文化であり、日本は仏教の影響を受けた関係重視の文化だという理解が一般的に広がっているとするならば、キリスト教は、本来、存在重視の文化、関係重視の文化、を超えたものであることを確認しておく必要があろう。つまり、キリスト教の三位一体論からは、「存在」と「関係」のどちらかが先行するなどいう結論を出すことはできない。なぜなら三位一体は時間に制約されることはない永遠的なお方であるがゆえに、「存在」から捉えることも可能だし、「関係」から捉えることも可能であるからである。


 それで三位一体を「存在」から捉えるならば、次のように言えよう。
 1、父は一人
 2、子は一人
 3、聖霊は一人
 4、父・子・聖霊は一人


 また三位一体を「関係」から捉えるならば、次のように言えよう。
 1、父と子の二者関係がある。
 2、子と聖霊の二者関係がある。
 3、父と聖霊の二者関係がある。
 4、父と子と聖霊三者関係がある。


1)スザン・B・シスルスウェイト 三位一体について 日本版インタープリテーション 聖書と神学の思想の雑誌 1991年11月 No.12(ATD・NTD聖書註解刊行会、1991年)佐藤全弘訳
2)河合隼雄「日本人という病」(潮出版社、1999年)P.168