1191、人格神インパクト→人格関係インパクト→人格インパクトで、道が開かれる

 明治期に日本に「人格」という言葉が導入され、日本人は日本人なりに「人格」という用語を使いこなそうとしてきました。でもも、この「人格」という言葉が、言語的には、英語の「パーソン」、ラテン語の「ペルソナ」から来ている程度の理解では定着できなかったのです。「ペルソナ」はキリスト教では、三位一体の「位格」のことであり、日本人にとって理解不能の領域にあったからです。ですから、外国から「人権」という言葉も入ってきましたが、「人格」理解がしっかりしていないと「人権」理解も曖昧なままです。

 

 そこでクリスチャンとして、私は最初に「人格」理解ありき、ではなく、「人格神」ありき、から始めないといけないと確信しています。まずは日本人が「人格神」を信じることです。モーセが最初に「人格神」に触れたあの瞬間のように。ペテロが最初に「人格神」に触れたあの瞬間のように。西洋人が最初に「人格神」に触れたあの瞬間のように、です。「人格神」インパクトを経験すると、「人格神」との関係性から生じる「祈り」に目覚めます。つまり「人格関係」を体験するのです。そして「人格関係」を体験するなかで、ようやく「人格」に気づき始めるという順番があると思うのです。もちろん、「人格神」を知らないものは「人格」を知らない、などと極論を言っているわけではありません。新しい「人格関係」に気づく、のです。呼応する、のです。私はこのような「人格」が語られるようになると、日本人にキリスト教がわかる時が来ると信じています。ただ宣教は「これ一本じゃない」という恩師の言葉を反芻しながら・・・