1190、マタイ14章のペテロと出エジプト3章のモーセが重なってくる

 マタイ14章から、「あなた」と「わたし」という言葉がこんなにも生き生きと響いてくるとは思いませんでした。ガリラヤ湖で、嵐の中、非人格的な幽霊だと思っておびえている弟子たちに、「しっかりしなさい。わたしだ。恐ることはない」「主よあなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」

 

 「わたしだ」(エゴエイミー)という言葉は、「いつものわたしだ」「非人格的な幽霊ではない」「いつも『わたしとあなた』というふうに気持ち(絆)で生きてきたわたしだ」「どんな現象下でも決して変わらない、いつものわたしだ」「あなたたちに私への信仰を深めてほしい、そんなわたしだ」という言葉だと思います。

 

 もしかすると日本人同士では、別の場所では「いつものわたしだ」と言ってもらえない寂しい存在かもしれません。「場所と時をわきまえて」配慮する傾向は、どの年代にもあります。冷たいと思うことがよくあります。日本人の常識であり、社会性であり、美徳であり、わかっているんだけど、ということがあります。教会のあなた、家のあなた、会社のあなた、学校のあなた、あの人としゃべっているあなたが、いつものあなたと違う、これぐらいはわきまえる必要があるのかもしれません。でも寂しい話です。しかしイエスさまは「場所と時をわきまえないで」「わたしだ」と言ってくださるのです。ミデアンの地でモーセに語られた出エジプト3章も、私たちの想定を超えて、「場所と時をわきまえないで」神が語られた箇所ではないでしょうか。