1203、あの言葉を使ってみただけで新しい世界が広がった20歳前後の頃

 20歳前後の頃、「客観」と「主観」という言葉を使えるようになった時に、少し賢くなったような気がした。遅まきながら「我と其」(ブーバー)の世界が広がる第一段階だったように思う。まさか、今になって、「客観」と「主観」という言葉、使用前に戻りたいと思うようになるなんて思ってみなかった。残念ながら一度覚えたら戻れない。二元化したものを一元に戻すことは不可能だ。あれから「実存」と「歴史」とか、「存在」と「関係」とか、いろいろ区別する言葉を覚えていった。でももう戻らない。戻りたいけど戻れない。

 

 これも20歳前後の頃、神さまに対して「あなた」と初めて呼んでみた時に、「我と汝」(ブーバー)の世界が広がったように思う。しかし「あなた」と呼んでも良いのだろうか、と思って躊躇した頃、確かに「我と汝」の世界が広がった。また「あなた」と呼んでもいいのか、「あなたさま」と呼んでみようか、と揺れ始めた頃も「我と汝」の世界が広がった。それから、神さまをどのように呼ぶか、ダビデのように理解した上で「岩」だとか、「羊飼い」だとか、自分は呼んでいるのか、躊躇し続ける私だが、でも「我と汝」の世界が少しは広がったように思う。

 

 

 

 

 

1202、キリスト教はまず個があって、個と個の間の関係が来るという発想??

 日本人は、個と個があって、あとに関係性があるという発想に生きていなかったことを木村敏氏は力説しているが、そうかもしれない。しかし彼の発想は、キリスト教と西洋を一括りにして文化比較ですべてを考えている。個よりも関係性から考える発想はキリスト教にもある。ここである。ほとんどの日本の知識人が、日本人は関係論的で、西洋人は存在論的という発想で議論してくるが、このフレームには気をつけよう。違うぞ、ということである。そのあたりの奥深さは三位一体論に包括されている。

1201、TCC時代、二つの神学で悩む私に有田師は神学は一つでいいと言われた

TCC時代、二つの神学で悩む私に有田師は神学は一つでいいと言われた。また福音派内の二つの両極の神学の本を紹介されて、「私たちの神学は真中なんです」とも言われた。今も「私たちの神学は真中なんです」で生きていると思っている。あの頃よりは、両極を示す座標軸が増えたようには思うが、しかし今だに真中が定まっていない。毎日揺れている。しかし、ただ一つ確信めいたものがある。それは混ぜものをされた中間的な料理を提供されてもあまりうれしくないということ。この料理に何が入っているか知りたいのだ。穏健な立場を目指すが、穏健は混ぜもの産物、混ぜものに別の混ぜものが加わると何が何だがわからなくなる。元々の調味料は何だったのか。塩か砂糖か酢か醤油か味噌か・・

 

1200、礼拝でまず人格神体験をし、聖書に理由を求め、信じるという順番

礼拝でまず人格神体験をし、聖書に理由を求め、信じるという順番だと思う。もしそうならば、教会の礼拝が救いのために中心的な出来事となる。「この感じはいったい、何なんですか。」そこで聖書から説明した結果、イエスさまを救い主として信じるという順番だと思う。未信者が経験した現象をクリスチャンが説明する、牧師が説明する、という形が一番、弁明しやすい。その場合注意せねばならないことは、クリスチャンが初心者が感動していることを理解してあげていないということである。クリスチャンのちょっとしたことが、初心者にとって感動に値することであることをクリスチャンが知っておくということである。安心できる場を知らない人が、教会が安心できる場だと知った時の感動はどんな感動であろう。自力がすべてだと思っていた人が教会で自力でない世界を垣間見た時の感動はどんな感動であろう。また愛を信じることができなかった人たちが、自然に愛の交流ができている姿を見た時の感動はどんな感動であろう。たとえ、教会に問題が生じても、それが解決されていく様子を見るときの感動はどんな感動であろう。見るからに感動的な賛美、見るからに感動的な説教、見るからに感動的な証しだけが感動ではないのだ。それを超えたところを初めての初心者は見ているのである。そこに対して我々は謙虚にならねばならない。やはり、礼拝でまず人格神体験をし、聖書に理由を求め、信じるという順番だと思う。

 

 

1199、確かに「人格神」は「人格」を超えたお方なんですが・・・

 確かに「人格神」は、我々の「人格」を超えたお方です。しかし、クリスチャン以外の人たちが「人格」を超えたお方を想像する場合、おそらく非人格的ものを想像するしかないのではないでしょうか。きっと非人格的なものだからこそ崇高であると考えるのではないでしょうか。非人格的な神ではなく、相手に語りかける人格関係的な神を想像したとしても、その神は低次元の神となってしまうのではないでしょうか。

 

 しかしクリスチャンの信じる神は、「人格」を超えた高次元のままの「人格神」です。高次元の「人格神」であるにもかかららず、クリスチャンに理解し得る「人格」ある「人格神」です。クリスチャンは、お祈りをすることによって、この「人格神」と語らっているのです。しかしなぜ、人格を超えたお方なのに、私たちクリスチャンと人格関係を持ち得るのでしょうか。もちろん、クリスチャンが、「ただ信ぜよ」の招きに答えて、イエスさまを信じ、私たち自身が新しい人格に変えられたからです。

 

 

 

 

1198、629の脳内出血後の有田師が20分かけて語られた説教(ルカ5:6)を再想起してみた

629、脳内出血後の有田師が20分かけて語られた説教(ルカ5:6)

 

 先生は下記の説教なさるのに20分かけられた。一行に1分以上かけられたのだ。また行と行の間にかなり長い「間」があった。ユダヤ人哲学者ピカートの「沈黙の時」を想起する。沈黙をキャンバスに言葉が動き始める。ちょうど、有田先生がこの説教をされた年齢に私も達した。私など到底及ばない先生の「霊性」。当時、先生は「霊学」でもするか、と何か冗談を言うような響きで語られた文章が残っている。

 

荒野は如何なるところか
私の心はそこに集中していた
荒野の語源は「語る」という動詞である
それは如何なることか
人なきところ
声なきところ、
と誰が考えるだろうか
私にはやがてその意味がわかった
それは神の語るところ
神の声のあるところ
という意味である
そうです
廃墟と祈り
それが私の持つところの意味である

 

 

1197、日本人は人格神がわかると人格関係がわかり、人格関係がわかると人格がわかる

人格神がわからないのに人格などわかるはずがないのです。人格神がわかるということは、人格神と「我と汝」の関係(ブーバーが使用する根源語)でわかるという意味です。人格神を「我とそれ」の関係(ブーバーが使用する根源語)でわかってもわかったことにならないということです。人格神が「我と汝」の関係でわかるということは、人格神は人格関係的にしか知る方法がないからです。その上で存在としての人格を自覚し始めるのです。