1196、色を混ぜてしまうと元に戻らない

色を混ぜてしまうと元に戻らない。でも何色と何色を混ぜたらこうなったか、混ざる前の色は知っておこう。神学でも何でもすでに混ぜた後の穏健な立場があり、混ぜたものと混ぜたものが合わされるともっと訳がわからなくなる。極端なしっかりとした混ぜる前の色を知った上で、混ぜたかったら知った上で混ぜるべきだと思う。最近は混ざりものが多すぎると思う。私はラディカルではない。でも混ざりものが多いのは問題だと思う。混ざりもの多くなった結果、例えば、本来自分の教派にあったものが、別の教派のものになっていたり、別の教派にあったものが自分の教派に来ていたり、まるで元々自分の教派にあったもののように思い込んでいる事例があるのではないかと思ったりもする。創造の記事から学ぶことは、神さまは混ざられたのではなく、分けられたのだ。神さまのみわざの奇跡は、分けられた、ということだ。ただ私たち人間は一度混ざったものを元どおりにできない。だけど混ざる前の色を想像することはできる。

1195、まずは想像力を飛翔させ、後に論理でまとめていく説教

 月曜日は想像力を飛翔させ、火曜日にはもっと飛翔させ、土曜日までに論理でまとめていく説教準備を想定してみた。一週間で想像力を飛翔させ過ぎて、土曜日に論理的にまとめきれなくなった状態で説教に臨んでしまう場合があった。また反対に月曜日から論理でまとめすぎて想像力の飛翔ができなくなった説教もあった。神さまは創世記1章で、どんどん飛翔していくご自分から湧き出すイメージに、区別の言葉(水と水の間を分けるなど場を分けていく言葉)で制限を加えるという形でイニシアチブ取られたのではないかと想像しても良いのではないか、と説教への適用として、思う。子供の時、絵を描く時に、画用紙の真ん中に区別の横線を引いた時から広がる世界があったなあ。場という制限を加えた時に次のイメージが広がっていった。

1194、眼前の親との対話よりも先祖との対話を優先している?

先祖を大切にしないといけないというのはわかる。しかし先祖に対しては、「我と汝」(ブーバー)の人格関係的対話はあり得ない。「我と汝」の関係があり得るのは、親子関係、生きている祖父との関係、生きているひーじいさんとの関係、ぐらいまでだろう。にもかかわらず、あり得ない「ご先祖さま」という曖昧な対象との曖昧な対話を優先するというのはどうなんだろう。先祖との神秘主義的合一的関係を優先する人々がいるということはどうなんだろう。歴史の多人数の先祖たちを一人の人格のようにして「ご先祖さま」にしてしまうのは如何なものだろう。モーセも「ご先祖さま」とは言わなかった。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というふうに固有名詞をあげている。

1193、聖書の神は、あらゆる自我が溶け込んでしまう神性の海ではない

「・・・これに対し、西アジアの宗教伝統では、神を人格と考えることがこのどちらにおいても(マックスウェーバーの言う「達人の宗教」と「大衆の宗教」どちらにおいても)中心となっている。エルンスト・トレルチがこの特徴をキリスト教に固有であるとしたのは正しい。聖書の神は、語り、聞く神である。そして人間の究極的運命は、この交わりの永遠性であり、あらゆる自我が溶け込んでしまう神性の海ではない。」(ピーターバーガー)

アーメン

 

 

1192、牧会とは、相手の実存を想像することから始まるとは思いますが

 牧会とは、相手の実存を想像することから始まるとは思いますが・・・。自分の実存と相手の実存が全く異なる領域にあることを知った上で、相手の実存を自分なりに想像することから始まるものだと思います。

 

 牧会とは、たとえ想像することが痛みであろうとも、想像すること自体を(祈りの中で)楽しむ世界なのです。痛みがある場合は想像することをやめたくなりますが、そうならないように鍛錬するのです。また相手を想像するためには観察するだけでは不十分であるのは当然で、想像を対話のなかで調整するのです。ただ相手の実存を想像できたと思っても、実際は、相手が想像以上に奥深い存在である現実に直面します。それで、牧会者は自分の信仰を働かせて、相手の実存に自分は入れないが、神が入られているという前提で、祈りのうちに、神に委ねる領域に達し、ついには安堵に至るのです。

 

 牧会者は、これを繰り返し続けることになります。アルコール依存症者の場合は、嫌なことを想像することをしたくないので酒に走るライフスタイルを確立した人たちです。しかし、彼らにとって残念なことは、嫌なことだけ消したいのに、良いことも消してしまうことになります。そして過去を全部消してしまった途端に未来とのバランスが取れなくなり、未来も消してしまうのです。

 

 しかし、牧会はアルコール依存症者とは正反対の道を歩むことになります。祈りのなかで、自分の想像力を働かせる領域をどんどん広げていく冒険者になるのです。想像力を働かせても、相手の実存には入れないことをわかっていても、想像の冒険を繰り返し、相手の中に神がおられることを信じ、直接、神に祈り、委ねるのです。

 

1191、人格神インパクト→人格関係インパクト→人格インパクトで、道が開かれる

 明治期に日本に「人格」という言葉が導入され、日本人は日本人なりに「人格」という用語を使いこなそうとしてきました。でもも、この「人格」という言葉が、言語的には、英語の「パーソン」、ラテン語の「ペルソナ」から来ている程度の理解では定着できなかったのです。「ペルソナ」はキリスト教では、三位一体の「位格」のことであり、日本人にとって理解不能の領域にあったからです。ですから、外国から「人権」という言葉も入ってきましたが、「人格」理解がしっかりしていないと「人権」理解も曖昧なままです。

 

 そこでクリスチャンとして、私は最初に「人格」理解ありき、ではなく、「人格神」ありき、から始めないといけないと確信しています。まずは日本人が「人格神」を信じることです。モーセが最初に「人格神」に触れたあの瞬間のように。ペテロが最初に「人格神」に触れたあの瞬間のように。西洋人が最初に「人格神」に触れたあの瞬間のように、です。「人格神」インパクトを経験すると、「人格神」との関係性から生じる「祈り」に目覚めます。つまり「人格関係」を体験するのです。そして「人格関係」を体験するなかで、ようやく「人格」に気づき始めるという順番があると思うのです。もちろん、「人格神」を知らないものは「人格」を知らない、などと極論を言っているわけではありません。新しい「人格関係」に気づく、のです。呼応する、のです。私はこのような「人格」が語られるようになると、日本人にキリスト教がわかる時が来ると信じています。ただ宣教は「これ一本じゃない」という恩師の言葉を反芻しながら・・・

1190、マタイ14章のペテロと出エジプト3章のモーセが重なってくる

 マタイ14章から、「あなた」と「わたし」という言葉がこんなにも生き生きと響いてくるとは思いませんでした。ガリラヤ湖で、嵐の中、非人格的な幽霊だと思っておびえている弟子たちに、「しっかりしなさい。わたしだ。恐ることはない」「主よあなたでしたら、私に命じて、水の上を歩いてあなたのところに行かせてください。」

 

 「わたしだ」(エゴエイミー)という言葉は、「いつものわたしだ」「非人格的な幽霊ではない」「いつも『わたしとあなた』というふうに気持ち(絆)で生きてきたわたしだ」「どんな現象下でも決して変わらない、いつものわたしだ」「あなたたちに私への信仰を深めてほしい、そんなわたしだ」という言葉だと思います。

 

 もしかすると日本人同士では、別の場所では「いつものわたしだ」と言ってもらえない寂しい存在かもしれません。「場所と時をわきまえて」配慮する傾向は、どの年代にもあります。冷たいと思うことがよくあります。日本人の常識であり、社会性であり、美徳であり、わかっているんだけど、ということがあります。教会のあなた、家のあなた、会社のあなた、学校のあなた、あの人としゃべっているあなたが、いつものあなたと違う、これぐらいはわきまえる必要があるのかもしれません。でも寂しい話です。しかしイエスさまは「場所と時をわきまえないで」「わたしだ」と言ってくださるのです。ミデアンの地でモーセに語られた出エジプト3章も、私たちの想定を超えて、「場所と時をわきまえないで」神が語られた箇所ではないでしょうか。