議論にしない、土俵にあげない、という忍耐が必要だと思う。どうして全部を話し合わないといけないのか、どうして議案にしなければならないのか、どうして決定を急ぐのか、という内容が多くあると思う。逃げているのではない。「あれかこれか」と「あれもこ…
んー でもかなり難しい。前の牧師はこうだったよ、とか、前の前の牧師はこうだったよ、とか。大企業出身者が多かったらその基準の影響が大きいし、学校の先生が多かったらその基準の影響が大きいし、役所関係が多かったらその基準の影響が大きいし、商売人が…
「その中でともに思い起こすべきは横浜バンドである。それは祈祷会から始まった。プロテスタント的「祈り」は神との人格的関係の中で神との語りである。それはキリストが「主の祈り」として教えたような祈りである。植村ははじめてキリスト教的祈りを経験し…
神の義務と私たちの義務の出会い、ではない。 神の権利と私たちの権利の出会い、でもない。 神の縛りと私たちの縛りの出会い、でもない。 神の運命と私たちの運命の出会い、でもない。 神の予定と私たちの予定の出会い、でもない。 神の願望と私たちの願望の…
私は「ジーザスセンタード」で生きる。「ジーザスセンタード」とは、キリストとの「我と汝」の人格関係があることを何よりも中心に据えること。「我と汝」の人格関係があるということは、そこに「祈り」があるということであり、実際に祈ることであり、祈り…
そう思ったほうが良いように牧会的には思った。しかしだからと言って、すべてを構造のせいにしてはならないし、すべて社会や環境のせいにしてはならない。そこを正せば人は救われるなんて、これっぽっちも思ってはならない。でもみんな大変だなあ。
説教で「思うんです」となんたることかという方がいる。しかし、21世紀日本で何が必要かというと、「思うんです」というふうにして、相対化できる領域は相対化させることだと思うのです。宗教の世界は、もっと相対化に向けて努力しないと、本物が浮き出て来…
説教者は、正直さがすべてだ。このテキストをどう読むか、どう乗り越えようとしているかなど、聴衆に伝わるような正直な人格であるべきだ。聴衆から説教者の本日の聖書との距離感、理解度が、ある程度見えるようにしておくべきだろう。説教者はそんな証言者…
公同意識のある人は、日曜日はどこかの礼拝に出る。ある年は改革派教会の方が「うちでは元旦礼拝がありませんので」ということで礼拝に参加してくださった。公同意識のある方だなと思った。でも実際の教会はそれぞれ独特の文化があり、公同意識などどこかに…
窓を見失った「奥深さ」は危険極まりない。窓だけで奥がないキリスト教などあり得ない。であるから、キリスト教は入口の単純さと奥行きの両方を何とかして証言すべきである。またその窓口と奥行きの繋がり(連続性)の神学も必要である。しかし客観的な神学…
ステップ1 私は自分が本当に無力であることを認めます ステップ2 彼だけが、わたしを強くしてくださるのです ステップ3 私は私の意志と人生のすべてを彼に委ねます ステップ4 強さと弱さを判別する為に棚卸しを始めます ステップ5 私は回復途上の物語を彼と…
敵の得意技は、「騒音」と「急ぎ」と「混雑」。でもこの「騒音」と「急ぎ」と「混雑」の中で宣教せざるを得ません。逃げるわけにはいきませんから。教会は、必ず「沈黙の世界」(別世界)の威力を示せるはずです。
オランダメノナイト1536〜 ドイツ敬虔主義1822〜 ドイツバプテスト1866〜 共同 体 的 教会の復元 苦難の追求 弟子 の 道 関 係 的 平 和 的 無 制 度 滴 礼 無抵抗 主義 内在神学 的 再 洗 礼 派 個人主義的 個人の覚醒 平安の追求 回心と献身 主 観 的 伝 …
12弟子たちは、イエスさまが父なるお方との人格的交応関係に立つ「祈り」をされているのを垣間見てただ不思議に思ったことだろう。これは一体なんだと思ったことだろう。彼らの眼前に、この人格的交応関係に立つ「祈り」が展開されていたのである。これこそ…
霊性神学を学ぶうちに、神秘主義と聖書主義の二つの軸で考えるようになった。しかし、私は神秘主義と聖書主義の二つの軸で考えていくべきではないと思うようになった。つまり対話主義を入れないといけないと思うようになった。
ああ自分は間違いなく、統一性に向かう礼拝の方向性と、多様性に向かう宣教の方向性の狭間のジレンマの中で牧会している。両方のベクトルが緊張関係を持っているのである。この緊張関係がない状況ってあるのだろうか。
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