今日の病院訪問

 私は認知症については無知です。しかし、牧師は最後の最後まで、医学用語である、認知症がどうであれ、ただただ人格関係を信じて会話します。主を信じる私たちクリスチャンは、主との人格関係を信じてきたのと同じように、お互いの間の人格関係についても決して諦めません。なぜなら、キリスト教の生命は、人格関係なのですから。

 今回病院訪問した姉妹は、認知が最も進んだ時期もありましたが、今はかなり回復してきました。今はとても良い状況ですが、以前大変だった時も、彼女との人格関係は全く変わっていないことを信じ続けてきました。自分の限界を認めつつも、です。

 と同時に、相手の方にも人格関係を諦めされない、希望を持たせるのが牧師の役割だと思ってきました。語り合うなかで沢山の言葉を思い出してもらい、語り合うなかで、沢山の言葉が奇跡的に回復し、語り合うなかで、沢山の感情が共鳴していきます。ある場合は言葉を誘導しながら、思い出させ、思い出した言葉を使ってもらうようにします。今回、うれしかった三つのことがありました。一つは、一緒に訪問した一人の姉妹が「私の夫がクリスチャンになりましたよ」と言われると、その方は本当に心から喜ばれ、感動の涙でお互いに心通わせることができたことです。以前と全く変わっていなかったのです。もう一つの喜びは、訪問する度に感ずるのですが、祈りの言葉が回復していく喜びです。一緒にお祈りできているという喜びです。もう一つは、今回初めて、彼女は、冷静に、私たちと別れてくださったということです。そりゃあ寂しいことでしょ。耐えられないことでしょ。でも彼女は、今回は私たちに対して、手をふって別れてくださったのです。「また来ますからね」と何度も何度も繰返して帰ってきました。