今日の水曜礼拝は、湖の上を歩かれたイエスさまのお話でした


 私が東京基督教短期大学神学課で学んでいる時、こんな楽しい思い出がある。男子寮の三階の一室が私の部屋だったが、夜中私が勉強している時、私の友人が窓の外にじっと立って、私を驚かそうとしたのだ。でも私は気づかなかった。夜中12時ぐらいだったか、先輩が「ラーメンでも食べないか」と私のところに来たとき、先輩のほうが、私の友人が窓の外にじっと立っているのを見てしまったのだ。先輩は叫び声をあげて、倒れてしまった。驚かそうした私の友人も驚いて、窓から「先輩ごめんなさい」と入ってきた。そうすると先輩は、放心状態で「おい、おまえー」

 夜中に黙って窓の外に立っていると、やっぱり怖い。でも「先輩ごめんなさい」と入ってくると安心する、どうしてか、そうだ。何が怖いのかというと、窓の外に黙って立っていると、その現象が非人格的だから怖いのである。イエスさまが、夜中の3時に、湖の上を歩いて、通り過ぎようとされていたから、怖いのである。でも、イエスさまは「しっかりしなさい。私だ。」と言われた。「いつものわたしだよ」と言われた。

 アウグスバーガーというフラー神学校の教授がこんなお話をしてくださったことがある。アメリカ人はいないないばあの、ばあが得意だ。日本人はいないいないが得意だ。人はいないいないだけでもよくないし、ばあだけでもよくない。いないいないが有効なのは、ばあがあるからだ。面白い話だった。

 非人格と思える状況が続くのはよくない。非人格と思える状況は人格関係的安心感があると信じるから有効なのである。イエスさまを信じるということは、どんな非人格的と思える状況下でも、イエスさまの人格関係を信じることの勉強である。12弟子はいろいろな状況下でこの勉強をした人たちだ。イエスさまを信じた人はみんな12弟子と同じ、弟子。だからイエスさまのすばらしい信頼関係、人格関係の訓練を受けていこう。今日の水曜礼拝はそんなはなしでした。