三位一体教 No.1(連続物ですので面白くない方は読み飛ばして・・・)

 ちいさな子どもだった頃、砂浜でちいさな小石を拾い集めたことはなかったですか。砂浜を少し歩くだけで、本当に美しい小石を見つけることができます。私も、いろいろな美しい小石を家まで持ち帰って机の引き出しになおしたことがありました。あなたに知ってほしい小石の物語をご紹介しましょう。2000年前から始まる単純な物語です。

 2000年前に今の中東にユダヤ人たちが住んでいました。そのユダヤ人たちは一つの「石」を拾おうとしました。ところがその「石」を拾ったのですが、すぐにポイっと捨ててしまいました。ところが、その捨てられた「石」を今度はギリシャ人が拾ったのです。ところが、そのギリシャ人もその「石」をポイッと捨ててしまったのです。ところが、その再び捨てられた「石」を今度はゲルマン人(西洋人)が拾いました。しかし結果的には、西洋人もまた、その「石」をポイッと捨ててしまいました。今度は、その捨てられた「石」をアジア人とかアフリカ人が拾っています。人はみな一応にその不思議な石に飛びつくのですが、その石を利用するだけ利用したあとは、やはりみなその石を無価値なもののように捨ててしまうのです。特に西洋人はこの石から多大な恩恵を受け、沢山の幸せを頂き、例えば、あらゆる学問を打ち立てることに成功したりもしたのですが、結局、彼らもその石をポイっと捨ててしまいました。どうも人類はその石に効力があると判断するまでは大切にするのですが、それがすでに消耗していると彼らが自分で判断した後、彼らはみなその石を捨ててしまうのです。この石とは、他でもない、キリストのことなのです。あえて申し上げましょう。「キリスト教」のことではなく、「キリスト」のことなのです。「キリスト教」という枠組みは今なお勢力を保ち続けていますが、残念ながら、世界はどの民族もどの国も平等にキリストを見捨てたのです。何度もこだわりますが、「キリスト教」は今もなお利用されていますが、キリストは見捨てられているのです。私が一番こだわっていることは、このことです。

 キリストの一番弟子であったペテロは、キリストが亡くなられて後、キリストのことをこのように証言しているのは興味深いことです。「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。」(新約聖書の第一ペテロ2章4節)

 拾われ、捨てられ、拾われ、捨てられ、拾われ、捨てられた、その石は日本にもあります。日本ではまだ拾われもしていません。隣の韓国では拾われ、捨てられ、の循環の中で、いろいろな反応が広がっています。しかし日本ではまだ拾われもしていません。

 私はとりあえず、拾って頂くために、この石を弁明していく必要があると思っています。私は一神教を嫌悪する文化に、この美しい石を味わって頂きたいという気持ちで、三位一体教という言葉をお伝えしたいと思います。

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