日本が慰められることを願う

 今日の水曜礼拝でルカ2章のシメオンを語りました。シメオンを読んでいると、シメオンは、「イスラエルが慰められること」を願っていました。このような生き方がどうしたらできるのでしょうか。つまり、私の場合だと、日本が慰められることを願う、というふうに自然に思える生き方がどうしたらできるのでしょうか。自分が慰められることだけを願うのではなく、自分の家族が慰められることだけを願うのではなく、自分の教会が慰められることだけを願うのではなく、自分の教派が慰められることだけを願うのではなく、日本のキリスト教会が慰められることだけを願うのではなく、日本が慰められることを願う、という生き方がどうしたらできるのでしょうか。どうしたら、東北の被災地にいるときと同じ気持ちで、武庫川キリスト教会で説教できるのだろうかと考え込んでいます。シメオンは、イスラエルが慰めるために登場されるキリストが生まれるまでは死なないというお告げを受けて生きていました。あのシメオンには、「りきみ」はあまり感じません。でも信仰って凄いと思わせる、信仰の輝きを見るのです。過去の信仰の偉人たち、例えば、内村鑑三賀川豊彦、は、日本が慰められることを願う、という視点を持っていたと思います。