相手を察する

 日本人は「相手を察する」という美徳を持っていると思います。相手を察するということは優しさでしょう。でも私が気にしていることは、人のことを察することはあっても、もしかすると、神さまのことを察する人って少ないのではないか、ということです。「神さまなんか見えないし、信じれないし、考えたくないし」と思われている方が多いのではないか。しかし「もし、神さまがおられるならば、どんなお気持ちでいらっしゃるだろう」と考えてみることを始めてはどうでしょうか。教会とは、そんなことを始める世界です。そのことを始めた時から世界は変わりますよ。途中でやめてしまうことなく、探りもとめる旅に出ませんか。
 
 私は牧師ですから、日曜日に説教をしますが、説教というのは、神さまがどんなふうに考えておられるだろうか、それを聖書から汲み取るすばらしいときです。そこで、神さまのお気持ちを察し、汲み取るために、1つの道具があるんです。それが、「十字架」です。十字架は神さまのお気持ちを察することができるすばらしい、驚くばかりのサインです。是非、十字架について、教会に聞きに来てください。