二・三人の神学(按手礼論文8)

発行日2001年4月22日(今回、プログ上で改訂)

第3章、シャロームの源泉は「人と人の間」3)か?

 日本人は個人が平和の源泉であると考えるよりも木村敏氏が表現した「人と人との間」という言葉を用いて、そこに平和の源泉があると考えるほうが納得しやすいように思われる。しかし実際「人と人との間」には平和の源泉は存在しないように思う。前述したが、個人のなかには、平和の源泉がないことを聖書は語っている。ましてや、個人ではなく、その個人と個人の間である「人と人との間」に平和の源泉などあり得ない。例えば「巡り合い」「出合い」に意義を持たせることができたとしても、そこに平和の源泉があるわけではない。男女の出合いのときめきも時間とともに消えていく。人と人との間には一時的な泉があったとしてもそこには源泉はない。それに加えて、「人と人の間」ほど曖昧な表現はない。なぜなら、そこには「二者関係」という「間」もあり、また「三者関係」という「間」もあり、「四者関係」という間もある。またもっと大きな「全体」のなかの「間」もあり、また漢字で表現すると、「世間」という「間」もあり、「仲間」という「間」もある。そこに何かがあるということに期待を膨らませたいが、結局、平和の源泉がそこにあってほしいという強い願望(コントロール)以外の何ものでもないように思う。関係か存在か、の議論は後述したいと思う。

3)木村 敏 人と人との間 精神病理学的日本論(弘文堂、47年)