2019-01-01から1年間の記事一覧
TCC時代、二つの神学で悩む私に有田師は神学は一つでいいと言われた。また福音派内の二つの両極の神学の本を紹介されて、「私たちの神学は真中なんです」とも言われた。今も「私たちの神学は真中なんです」で生きていると思っている。あの頃よりは、両極を示…
礼拝でまず人格神体験をし、聖書に理由を求め、信じるという順番だと思う。もしそうならば、教会の礼拝が救いのために中心的な出来事となる。「この感じはいったい、何なんですか。」そこで聖書から説明した結果、イエスさまを救い主として信じるという順番…
確かに「人格神」は、我々の「人格」を超えたお方です。しかし、クリスチャン以外の人たちが「人格」を超えたお方を想像する場合、おそらく非人格的ものを想像するしかないのではないでしょうか。きっと非人格的なものだからこそ崇高であると考えるのではな…
629、脳内出血後の有田師が20分かけて語られた説教(ルカ5:6) 先生は下記の説教なさるのに20分かけられた。一行に1分以上かけられたのだ。また行と行の間にかなり長い「間」があった。ユダヤ人哲学者ピカートの「沈黙の時」を想起する。沈黙をキャンバスに…
人格神がわからないのに人格などわかるはずがないのです。人格神がわかるということは、人格神と「我と汝」の関係(ブーバーが使用する根源語)でわかるという意味です。人格神を「我とそれ」の関係(ブーバーが使用する根源語)でわかってもわかったことに…
色を混ぜてしまうと元に戻らない。でも何色と何色を混ぜたらこうなったか、混ざる前の色は知っておこう。神学でも何でもすでに混ぜた後の穏健な立場があり、混ぜたものと混ぜたものが合わされるともっと訳がわからなくなる。極端なしっかりとした混ぜる前の…
月曜日は想像力を飛翔させ、火曜日にはもっと飛翔させ、土曜日までに論理でまとめていく説教準備を想定してみた。一週間で想像力を飛翔させ過ぎて、土曜日に論理的にまとめきれなくなった状態で説教に臨んでしまう場合があった。また反対に月曜日から論理で…
先祖を大切にしないといけないというのはわかる。しかし先祖に対しては、「我と汝」(ブーバー)の人格関係的対話はあり得ない。「我と汝」の関係があり得るのは、親子関係、生きている祖父との関係、生きているひーじいさんとの関係、ぐらいまでだろう。に…
「・・・これに対し、西アジアの宗教伝統では、神を人格と考えることがこのどちらにおいても(マックスウェーバーの言う「達人の宗教」と「大衆の宗教」どちらにおいても)中心となっている。エルンスト・トレルチがこの特徴をキリスト教に固有であるとした…
牧会とは、相手の実存を想像することから始まるとは思いますが・・・。自分の実存と相手の実存が全く異なる領域にあることを知った上で、相手の実存を自分なりに想像することから始まるものだと思います。 牧会とは、たとえ想像することが痛みであろうとも、…
明治期に日本に「人格」という言葉が導入され、日本人は日本人なりに「人格」という用語を使いこなそうとしてきました。でもも、この「人格」という言葉が、言語的には、英語の「パーソン」、ラテン語の「ペルソナ」から来ている程度の理解では定着できなか…
マタイ14章から、「あなた」と「わたし」という言葉がこんなにも生き生きと響いてくるとは思いませんでした。ガリラヤ湖で、嵐の中、非人格的な幽霊だと思っておびえている弟子たちに、「しっかりしなさい。わたしだ。恐ることはない」「主よあなたでしたら…
私が神さまのことを「あなた」というようになったのはいつ頃だったか、確かに「あなた」と言った時に、神が近づいたような気がした。でも韓国から来られた牧師が日本語の「あなた」に疑問を持たれていることを聞いてから、「あなた」について使いにくくなっ…
この区別がどれほど重要であるか、この区別がクリスチャンのなかであまりにも曖昧になりすぎているのではないか。私もピーターバーガーと同じ気持ちである。 「まず、多くの『霊性』が巷に氾濫している今日、特に重要な区別は、祈りは瞑想ではないということ…
相対化という言葉は、絶対化という言葉があるからあるのだ。相対化は我々人間が、被造物を絶対化してしまう罪があるからどうしても必要なのだ。本来、被造物はすべて、そのままで良かった。そのままならば相対化する必要などなかった。しかし絶対化の結果、…
1990年代は、私自身、アルコール依存症に興味が偏っていた時代だった。アルコール依存症関連への関心が元となって、2000年に、自分のそれまでの経験をまとめる意味で、按手礼論文「二、三人の神学」を書いた。「しらふの神学」というのは、イエスさまが十字…
「すでに触れたが、一部の人間の罪を、その民族なり国家の責任にする考え方を、ブーバーは拒絶したのである。イエスを処刑に追いやったのがユダヤ人だからといって、ユダヤ民族すべてに罪を着せるとか、ナチスやナチス支持者がドイツ人だったといって、ドイ…
京都アニメの放火事件のコメントを聞きながら、みなさん、この世界は、結局「我とそれ」のなかで議論するしかないんだなあと思った。致し方ない。社会の構造をなんとかしないといけないという議論、そのために原因を探求しないといけない、原因探求まで追っ…
574、基督教が増えぬ理由3:わからぬ人格神。神と距離を持つ文化(2016/12/19) 明治以降、基督教と共に「人格」という言葉が日本に輸入された。でも「人格」という言葉を日本人は使いこなせないでいる。ましてや「人格神」など全然わからない状況だと思う。…
573、基督教が増えぬ理由2:西洋=基督教のイメージがまだ根深い(2016/12/19) 577、基督教が増えぬ理由6:西洋型基督教を誇り、利用し過ぎた(2016/12/19) 西洋で生まれたものを自分たちのものとして取り込んだり、自分たちのものでないと言ったり、どうも…
カトリックは・・・そこに留まって、生きた ルターは・・・・・抵抗して、追い出された 再洗礼派は・・・・迫害されて、出て行った
聖書は「A≠B」の論理から始まっている。というのは、創世記には「創造主≠我々」「創造主≠被造物」があるが、「創造主=被造物」はない。「神のかたち」を拡大解釈して「神=我々」とすることはできない。
すべての論理の根本に「=」がある。「=」なき論理などあり得ない。我々は、いろいろな単語を「=」で結びつけて理解してきた。例えば、英和辞典と和英辞典で、日本語と英語の「=」を確かめてきたのである。またあらゆる事物に遭遇する度に、「これとこれ…
議論にしない、土俵にあげない、という忍耐が必要だと思う。どうして全部を話し合わないといけないのか、どうして議案にしなければならないのか、どうして決定を急ぐのか、という内容が多くあると思う。逃げているのではない。「あれかこれか」と「あれもこ…
んー でもかなり難しい。前の牧師はこうだったよ、とか、前の前の牧師はこうだったよ、とか。大企業出身者が多かったらその基準の影響が大きいし、学校の先生が多かったらその基準の影響が大きいし、役所関係が多かったらその基準の影響が大きいし、商売人が…
「その中でともに思い起こすべきは横浜バンドである。それは祈祷会から始まった。プロテスタント的「祈り」は神との人格的関係の中で神との語りである。それはキリストが「主の祈り」として教えたような祈りである。植村ははじめてキリスト教的祈りを経験し…
神の義務と私たちの義務の出会い、ではない。 神の権利と私たちの権利の出会い、でもない。 神の縛りと私たちの縛りの出会い、でもない。 神の運命と私たちの運命の出会い、でもない。 神の予定と私たちの予定の出会い、でもない。 神の願望と私たちの願望の…
私は「ジーザスセンタード」で生きる。「ジーザスセンタード」とは、キリストとの「我と汝」の人格関係があることを何よりも中心に据えること。「我と汝」の人格関係があるということは、そこに「祈り」があるということであり、実際に祈ることであり、祈り…
そう思ったほうが良いように牧会的には思った。しかしだからと言って、すべてを構造のせいにしてはならないし、すべて社会や環境のせいにしてはならない。そこを正せば人は救われるなんて、これっぽっちも思ってはならない。でもみんな大変だなあ。